「30年間、小さな庭を見つめ続けた画家」熊谷守一 ──“画壇の仙人”になるまでの波乱の人生【前編】
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熊谷守一
近代日本の画家には、強い個性を持つ人物が数多くいます。その中でも、熊谷守一(くまがい もりかず)はひときわ異色の存在です。
猫や虫、草花など、ごく身近なものを題材にした作品で知られ、「画壇の仙人」と呼ばれることもあります。晩年には東京都豊島区の自宅の小さな庭を何十年も観察し続け、その世界を描き続けました。そのため、「30年間、庭から出なかった画家」という逸話でも広く知られています。
けれども、その穏やかな絵から受ける印象とは対照的に、熊谷の人生は決して平坦なものではありませんでした。
名家に生まれながら、幼い頃から試練を経験する熊谷守一は1880(明治13)年、岐阜県恵那郡付知村(現在の岐阜県中津川市付知町)に生まれました。
父・熊谷孫六郎は製糸業で成功した実業家で、後には初代岐阜市長や衆議院議員も務めています。経済的には恵まれた家庭でしたが、守一自身は幼い頃に祖母や母と離れて暮らす時期があり、家庭環境は決して単純ではありませんでした。
11歳のときには濃尾地震を経験し、多くの知人を失います。幼い少年にとって、この出来事がどれほど大きな衝撃だったかは想像するしかありません。しかし、命のはかなさを身近に感じた経験は、その後の人生観にも少なからず影響を与えたと考えられています。
「画家になりたい」という思いを貫く17歳で上京した守一は、画家を志したいという思いを父に伝えました。
父は頭ごなしに反対することはなく、「慶應義塾に一学期だけ真面目に通うこと」を条件に認めます。守一は約束どおり一学期間通学した後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)へ進み、本格的に絵を学び始めました。
現在では簡潔な線で描かれた猫の絵が有名ですが、学生時代には基礎となるデッサンを徹底的に学び、高い写実力を身につけています。
だからこそ、晩年の簡潔な表現は「描けなかった」のではなく、「描くものを選び抜いた結果」と見ることもできるでしょう。
長野重一・飯沢耕太郎・木下直之編『日本の写真家 9 安井仲治』、岩波書店、1999年02月25日
苦しい生活の中で相次いだ家族との別れ1909(明治42)年、自画像《蝋燭》が文展に入賞し、画家として少しずつ知られるようになりました。
とはいえ、生活は苦しいままでした。作品が思うように売れず、家族を養うことにも苦労が続きます。
42歳で18歳年下の秀子と結婚し、5人の子どもに恵まれましたが、幼い息子・陽は肺炎のため3歳で亡くなりました。当時は医師に診てもらう費用さえ十分ではなかったと伝えられています。
守一は、その日の出来事を《陽の死んだ日》として描き残しています。しかし後年、その作品を見返して「これでは人間ではない。鬼だ」と語ったとされます。その言葉からは、父親として抱え続けた後悔や自責の念が伝わってくるようです。
その後も長女・萬、三女・茜を病で亡くし、大切な家族との別れを幾度も経験しました。
現在では「猫の画家」という親しみやすい印象が先に立ちますが、その穏やかな作品の背景には、こうした深い喪失の積み重ねがありました。
それでも守一は描くことをやめませんでした。
やがて晩年になると、自宅の小さな庭で過ごす時間が何よりも大切なものになります。その庭は、熊谷守一にとって単なる庭ではなく、一つの世界そのものだったのかもしれません。
後編では、熊谷守一がなぜ小さな庭だけで満たされるようになったのか、そして「画壇の仙人」と呼ばれるようになった理由を詳しくご紹介します。
参考文献
藤森武 『独楽 : 熊谷守一の世界』紅書房、1986年。 長野重一・飯沢耕太郎・木下直之編『日本の写真家 9 安井仲治』、岩波書店、1999年。 田村祥蔵『仙人と呼ばれた男―画家・熊谷守一の生涯』中央公論新社、2017年。 福井淳子『いのちへのまなざし―熊谷守一評伝』求龍堂、2018年。 古川秀昭『熊谷守一 気ままに絵のみち』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房、2019年。 熊谷守一(絵)、ぱくきょんみ(文)『はじまるよ』福音館書店、2019年。日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan