『豊臣兄弟!』に登場し一瞬で切腹!部下の命と引き換えに散った名将・清水宗治の“辞世の句”とその最期
大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しんでいますか?
第28回放送「急げ!秀吉」で初登場したかと思いきや、いきなり切腹してしまった清水宗治(しみず むねはる)。それまでも何度か名前だけ言及されていましたが、果たして彼は何者だったのでしょうか。
今回は毛利氏に仕えて活躍し、その死を惜しまれた名将・清水宗治について、その生涯をたどってみたいと思います。
備中兵乱で毛利氏に寝返る
清水宗治は天文6年(1537年)、清水宗則(むねのり)の子として備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市)で誕生しました。
幼名は才太郎、兄に清水宗知(むねとも)、弟に難波宗忠(なんば むねただ)などがいます。
やがて石川久孝(ひさたか)の娘を娶り、子に清水宗之(むねゆき)・清水景治(かげはる)・難波宗定(むねさだ)ほか女子(中島元行室、駒木根清右衛門室)などを授かりました。
はじめ石川家臣として仕えていましたが、天正2~3年(1574~1575年)の備中兵乱に際して毛利氏へ寝返り、備中高松城(岡山県岡山市)を任されるようになります。
備中高松城の水攻め
かくして毛利家臣となった宗治は忠義を尽くし、また武勇を奮って中国地方の平定に活躍したため、毛利氏からの深い信頼を得ました。
天正10年(1582年)4月に羽柴秀吉(池松壮亮)が備中高松城を攻めると、宗治は徹底抗戦の構えを見せます。
秀吉ははじめ「降伏すれば備中(岡山県西部)と備後(広島県東部)の2ヶ国を与える」という条件を提示しますが、宗治はこれを受け入れません。
そして秀吉からの書状をそのまま毛利氏へ届けて「こんな条件で裏切ることはありません」と忠義を示したのでした。
交渉が決裂したため、秀吉は黒田官兵衛(倉悠貴)の献策により、備中高松城を水攻めにします。
財力にモノを言わせ、突貫工事で長大な堤防を築き上げ、そこへ水をためたのでした。まともに攻め落とそうとしたら甚大な被害が出るため、このような奇策を採ったのです。
果たして備中高松城は孤立し、落城も秒読みかと思われました。
すわ宗治を討たせてなるものかと毛利輝元(濱正悟)・吉川元春(こばやし元樹)・小早川隆景(山本浩司)ら毛利首脳陣が援軍を率いて駆けつけたものの、水に隔てられて救援がままなりません。
何とか宗治だけは助けたいと、輝元は安国寺恵瓊(立川談春)を秀吉の元へ派遣し、和睦交渉に臨んだのでした。
将兵の助命と引き換えに切腹
和睦交渉において、毛利氏ははじめ、このような条件を提示します。
一、備中・備後・美作(岡山県北東部)・伯耆(鳥取県西部)・出雲(島根県東部)の5ヶ国を割譲する。
一、その代わりに宗治の命は助けてほしい。
つまり宗治は、毛利氏にとって「5ヶ国と引き換えにしてでも喪いたくない」家臣だったようです。
しかし秀吉はこれを拒否。5ヶ国の割譲は当然として、宗治の切腹だけは譲りませんでした。
秀吉とすれば、宗治を「生かしておくと後々厄介な人物」と見ていたのでしょう。
和睦交渉が平行線をたどっていることを知った宗治は、主君の恩に感じ入りながらも、自分が足手まといにならぬよう憂慮しました。
そして以下の嘆願書を安国寺恵瓊に送っています。
一、自分・清水宗知・難波宗忠・末近信賀(すえちか のぶちか)の4名が切腹する。
一、その代わりに城兵の命は助けてほしい。
交渉が難航する中、天正10年(1582年)6月2日に京都・本能寺で織田信長(小栗旬)が横死を遂げました。後世に伝わる「本能寺の変」です。
信長の悲報を逸早く知った秀吉は和睦条件を緩和し、3ヶ国の割譲と宗治らの切腹でよいと妥協しました。
かくして6月4日、宗治らは水上に舟を漕ぎ出し、切腹して果てます。享年46歳。
終わりに
歌川豊宣 「新撰太閤記 清水宗治切腹之図」より、切腹に臨み舞を一指し。
浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して
【歌意】今こそ浮世から極楽浄土へと渡っていこう。武士としての名誉を、ここ備中高松城の苔(コケ)に残せたのだから、一片の悔いもない。
こちらは宗治が切腹に臨んで詠んだ辞世です。大将として、自分の命と引き換えに部下の命を救うことは、名誉ある最期の務めでした。
その立派な最期を見届けるや否や、秀吉はただちに京都へ引き返す「中国大返し」にとりかかります。
劇中では実にあっさり描かれていましたが、このような名場面が描かれていました。
武士の鑑として敵味方から賞賛された宗治は、死後400年以上の歳月を経た大正13年(1924年)2月11日、宮内省より従四位(じゅしい)の位階を追贈されています。
名将・清水宗治の活躍を、またどこかの作品で観たいですね!
※参考文献:
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年10月 谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年12月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan