【豊臣兄弟!】最後まで光秀に仕えた斎藤利三の壮絶な最期…晒された遺体を命がけで奪還した親友

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【豊臣兄弟!】最後まで光秀に仕えた斎藤利三の壮絶な最期…晒された遺体を命がけで奪還した親友

「忠義を尽くす“主”は、生涯にたった一人だけ」
「あの方の作る世が見てみたかった」

羽柴秀吉にとって、たった一人は織田信長。
明智光秀にとって、たった一人は足利義昭。

胸に抱く思いは同じだからこそ、分かり合えた二人。

狭く暗い茶室の中で行われた、二人の会話の応酬こそが本当の「天王山の戦い」だった……そんなふうに感じた展開となった明智光秀の最期でした。

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第29回『天下への道』

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ここに、もう一人「あの方の作る世が見てみたかった」人がいました。

明智光秀(要潤)に最期まで仕えた武将・斎藤利三(内藤剛志)。

ドラマではその最期は描かれなかったようですが…。

本能寺の変や山崎の戦いでは、先鋒として活躍したという斎藤利三。

騙されて、捕らえられ、斬首されたうえに、秀吉に「わざわざ首と胴を再びつないで磔にする」という残酷な扱いをされる最期を迎えます。

けれども、そんな秀吉の扱いに「武将のやることとも思えぬ」と怒り心頭となった利三の大親友二人が、利三の遺体を奪還。手厚く葬りました。

450年近く年月の経った今でも、静かに三人並ぶお墓に手を合わせる人が訪れるそうです。

「本能寺の変」を巡る有名なエピソードの影に隠れた、斎藤利三アナザーストーリーをご紹介しましょう。

明智光秀と斎藤利光(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

「これまで謀反をずっと延期してきました」と利三

「豊臣兄弟!」第27回『本能寺の変』で、「狙うは信長ただ一人!必ず見つけ出せ‼」と、明智軍の最前線で指揮をとったのは、明智光秀ではなく斎藤利三でした。

この脚本は、ドラマのラストの「紀行」でも紹介していたように、加賀藩に仕えた兵学者・関屋政春が見聞した書物『乙夜之書物』の中で、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」(本能寺の変の当日、光秀は本能寺にはおらずに鳥羽で控えていた)という一文が見つかった……ことに基づいて作られたのでしょう。

〜本能寺ヱハ明知弥平次斎藤内蔵人数弐千余キ指ムケ、光秀ハ鳥羽ニヒカヱタリ〜

「本能寺には、明知弥平次(明智秀満)と斎藤内蔵人(斎藤利三)が率いる2000余騎を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた」という記述です。

そして、もう一つ『乙夜之書物』で注目されている記述があります。

本能寺の変前日の6月1日昼に亀山城(丹羽国)に入った斎藤利三のことを光秀は城の入り口で迎えたとのこと。そして、城内の茶室に明智軍の首脳陣を集め、皆に謀反を打ち明けたとあります。

それを聞いた斎藤利三は「これまで謀反をずっと延期してきました。先鋒は私が務める」と主張したとあります。

「利三は謀反に反対していた」という説もありますが、最近は「利三は謀反に積極的だった」という説も有力視されているようです。

「謀反を延期してきた」ということは、ずいぶんと前から光秀と利三は、謀反を計画していて、最善の「時は今」のタイミングを狙っていたのかもしれません。

明智光秀と斎藤利光(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

「殿……いえ。上様、どうかご武運を」

本能寺の変後、有力諸将を味方につけることができずに「山崎の陣」を構えることになった明智光秀。

ドラマでは、陣で光秀と利三は二人きりに。(いつもは明智秀満や藤田伝吾、溝尾庄兵衛などの重臣が同席していたようなのですが)

「長宗我部殿に織田の背後を脅かすように書状を送っては」という利三に「もう、よい」と止める光秀。

「どんなに敵が躍起になろうとも変えられないことがある。信長はもはやおらぬ」

信長を失い逆上している寄せ集めの織田総合軍は「わしの首欲しさにおのおのが勝手に動くだろう。信長の代わりなど誰にもつとまらん」と光秀。

信長の息子たちより、秀吉(池松壮亮)や丹羽長秀(池田鉄洋)と同様、信長のことをよくわかっています。

案の定、織田総合軍の陣地ではお互いが「お前だって裏切りものだろう!」と摂津衆がわちゃわちゃと大揉めしていました。

「わはははははは」と大笑いする長秀。「今笑ったのはわしではない。明智じゃ」と。……さすが、光秀、ご明察。

そして、山崎の戦いでは、光秀の読み通り、堪えきれずに明智軍の誘いに乗ってしまった高山右近軍、中川清秀軍勢が窮地に陥りました。

けれど、後方にいた秀吉の援軍・山側からの小一郎(仲野太河)と黒田官兵衛(倉悠貴)の軍・淀川を登り明智軍を横腹から攻め込んだ池田恒興(堀井新太)軍が駆けつけて、瞬く間に明智軍は一転して形勢不利になってしまったのでした。

今一歩のところで阻まれ、撤退を決めた光秀と利三。

「我らが時をかせぐのでお逃げください…殿がご無事でさえいれば我々はまだまだ戦えまする」と利三。

決意した光秀は立ち上がり「坂本城で待つ。利三必ず生きて戻ってまいれ」

「はっ。殿も……いえ。上様。どうかご武運を」

「殿」ではなく、「上様」と言い直す利三。

永遠の別れとなることを覚悟して。あるいは、このまま逃げて“織田を嫌う武将”を集め体制を立て直し、次は勝つことに望みを託して。

最大の敬意を込めた利三の「上様」。短い場面でしたが、いいシーンでした。

戦場に出向いた利三は、光秀が辿っているだろう山のほうを見やり、そっと礼をして「上様、どうかご無事で」と呟きました。

光秀が「公方様の作る世が見てみたかった」ように、利三も光秀が天下をとって「上様が作る世が見たかった」のではないでしょうか。

織田総合軍の動きは見透かしていた明智光秀と斎藤利光(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

光秀が信頼を寄せた家臣の息子に裏切られる

前回のドラマでは描かれなかった斎藤利三の最期

『豊鑑』(※1)によると、山崎の戦いで先鋒を務めたものの、形勢不利となったために逃げた利三は、近江志賀郡の堅田(滋賀県大津市)に潜伏しました。

この場所は、光秀の重臣・猪飼昇貞の領地でした。昇貞は本能寺の変では、明智方に加担し戦死したものと推測されています。

けれども、昇貞の子・猪飼秀貞は潜伏中の利三を捕縛したのです。

秀貞も光秀に仕え、明智半左衛門秀貞という名を賜っていました。明智姓を許されるということは、光秀からはそれなりの信頼を寄せられていたのかとは思うのですが。

秀貞は、本能寺の変では光秀の見方にはつきませんでした。なぜか?の理由は不明です。父が光秀側につくのであれば、一族や家来を路頭に迷わせないため、息子の秀貞は光秀側にはつかなかったのでは、とも推測されています。

そんな秀貞は、方法は不明ですが斎藤利三を騙して捕縛、一緒にいた息子と共に秀吉に突き出したのでした。
『兼見卿記』)(※2)

※1 豊鑑:豊臣秀吉の伝記。秀吉の臣で竹中半兵衛の息子・竹中重門が、隠棲のつれづれに童子の尋ねるままに古ごとを語り、それを筆に移したという著述。寛永8年(1631)8月に擱筆。

※2 兼見卿記:明智光秀とかなり親しい仲だった吉田神社の祭祀を担う一族の長・神道家の日記

『堅田浦の月』- 山崎の戦いに敗れ堅田に逃れた斎藤利三(月岡芳年)public domain

斬首した首を胴体とつなぎ再度磔にした秀吉

天正10年6月13日「山崎の戦い」の5日後の18日、斎藤利三は京都市中を引き廻しのうえ、六条河原(現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り)で処刑されました。

光秀は、明智軍の敗北を知って落武者の所持品や首級を狙って落武者狩りを行っていた土民らの落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げたと伝わります。

その後、光秀の斬られた首(※)は胴体と接続させて、京都粟田口(京都市東山区・左京区の境)で磔に。斬首された利三も同様の扱いをされて、衆人の面前に晒されるという残虐なはずかしめを受けました。

この処刑には多くの見物人が集まったそうです。光秀と利三のほか討ち取られた首は3000余もあり、それらの首を埋葬した首塚が築かれました。

光秀の首塚は、三条白川、亀岡市郊外の谷性寺、宮津市の盛林寺など、いくつか存在しています。

※光秀の首は落武者狩りをした土民が差し出した、実は光秀の首は見つからず秀吉はほかの者の首を利用したなど、諸説あり

亀岡市の郊外にある谷性寺の明智光秀の首塚 photo-ac.

親友、海北友松・東陽坊長盛は利三への仕打ちに激怒

そ秀吉の、非道な光秀と利三の遺体への仕打ちに激怒した人がいました。

絵師で槍の達人でもある海北友松です。

友松は、北近江の戦国大名浅井家の重臣・海北綱親の5男として生まれました。

ところが、2歳の時に綱親が討死したために、京都東福寺で禅僧としての修行に入ったのです。友松は禅僧の修行とともに、弓・太刀・槍などの修行にも励んでいました。

浅井長政の死後、浅井家が断絶に追い込まれたあと、海北友松は茶の湯をきっかけに斎藤利三に出会ったそうです。

利三は、堺の豪商・津田宗及などと茶の湯を嗜むなど、高い教養を兼ね備えていました。さらに、僧侶でありながら千利休に茶湯を学んだ文化人でもある京都真如堂の塔頭・東陽坊の住持・東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)とも出会い交流を持つようになったのです。

斎藤利三・海北友松・東陽坊長の三人は茶湯を通して、親友といってもよいほどの友人関係を育んでいったそうです。

そのせいか、海北友松・東陽坊長は、秀吉が光秀と利三の遺体を残酷な扱いをして晒しものにして、死者を冒涜し辱めるという振る舞いに激怒したのでした。

海北友雪筆、海北友竹賛『海北友松夫妻図』wiki

刑場に忍び込み利三の遺体を奪還し葬った親友

海北友松・東陽坊長の二人は、長槍を持って粟田口の刑場に忍び込んで番兵を追い払い、利三の遺体を奪還しました。そして、真如堂に戻り手厚く葬ったのでした。

秀吉にとっては、明智光秀とともに謀反を起こした大罪人。せっかく市中に晒して辱めて信長の仇を取ってやったといい気分に浸っているところに、その遺体を奪還されたとあってはメンツは大潰れで、どんな刑罰を受けるかわかったものではありません。

けれども、親友の遺体がそんな扱いをされていることに、二人は到底我慢ができなかったそうです。

また、友松はその後も、近江堅田に隠れ住んでいた利三の妻子の面倒を見続けたとも伝わります。(因みに、利三の末娘が後に江戸城大奥で権勢をふるう春日局です)

このエピソードに関しての一次史料はないようです。けれども、京都の真如堂には、実際に斎藤利三・海北友松・東陽坊長の三人の墓が現存し、今も供養に訪れる人は絶えないようです。

京都・真如堂。wiki

春日局が父・斎藤利三を弔うために植えた「たてかわ桜」

また、三人の墓所の近くには、春日局が父・斎藤利三の菩提を弔うために植えた『たてかわ桜』も。

通常は、染井吉野の樹皮が横向けに走るのに対し、この桜は桜の巨樹に多い江戸彼岸系の品種で、松の皮のように縦に樹皮が走ることから、その名が付いきました。

春日局は、当時主流だった山桜や他の品種ではなく、この江戸彼岸系という桜を選んだのはこの種が長寿だったからともいわれています

「上様(明智光秀)の作る世が見てみたかった」斎藤利三。

そんな、忠義者の利三の遺体を「秀吉ごときに辱めを受けてたまるか」と奪還した漢二人、海北友松・東陽坊長。

「山崎の戦い」の影に存在した、忠義と友情に彩られたアナザーストーリーでした。

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参考:墨龍賦 葉室 麟

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