『豊臣兄弟!』で描かれた織田信長の道普請は史実?信長が実施した街道整備の施策を紹介
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第1回放送「二匹の猿」で初登場した織田信長(小栗旬)は、道普請の現場にお忍びで参加していました。
小一郎(仲野太賀)が「道を整備したら敵が攻めてくる」と考える一方、信長は通商や産業の活性化、そして積極的な攻勢を考えていたようです。
お忍びで道普請に参加していた信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
実際の信長も街道整備に注力し、天下一統に邁進していきました。今回は史料をひもとき、信長の道路政策を紹介したいと思います。
道路こそ権威の源
信長と再会した小一郎。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
時は天正2年(1574年)末、信長は朱印状を発給しました。これは領国内の道路整備を命じたもので、以下の内容となっています。
道路を平らにならし、石を取り除くこと。 路幅を三間間中(約6メートル)とすること。 道路の両脇に松と柳の木を植えること。 道路をこまめに掃除すること。 川には舟橋を架けること。道路をならして石を取り除くのは、行軍をスムーズにするためでしょう。
路幅の三間間中(さんけんまなか)とは三間半と同じで、これは織田軍中における槍の長さでした。
ただし後に三間二尺(約5.7メートル)となっており、実際には当初から三間二尺だったようです。
道路の両脇に松と柳の木を植えるのは、道路境界の明確化と日陰による快適さを目的としていました。
例えば東海道の松並木がよく知られており、信長の施策はその先駆けと言ったところでしょうか。
また古代律令でも街道に柳を植えるよう命じており、その伝統にも則っていました。
道普請に従事する小一郎。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
道路清掃の励行はもちろん歩きやすさのためですが、清潔な道路は心理的にも好影響が期待できます。
また清掃が行き届いていることで、織田家の武威が領国の隅々まで行き渡っていることをアピールする意味もありました。
舟橋とは河川に小舟を浮かべてつなぎ合わせ、上に板を渡すことで橋にした浮桟橋です。
こうすれば大きな河川でも頑丈な橋脚を打つ必要がなく、水流を受け流して通行を維持できました。
もちろん小さな川では橋を常設した方が効率的なので、状況に合わせて臨機応変に整備したことでしょう。
こうした政策を徹底することで、信長は自身の権威を確立し、また領民たちは道路の恩恵にあずかったのでした。
息子たちの道路施策は?
こうした信長の施策思想は息子たちにも受け継がれたようです。
長男の織田信忠は天正4年(1576年)の朱印状で道路を3種類に分類しました。
本街道:三間二尺(約5.7メートル) 脇街道:二間二尺(約4.0メートル) 在所道:一間(約1.7メートル)また両脇に高さ三尺(約90センチ)の盛土をし、そこに松と柳を植えさせます。そしてもし植えた木が枯れてしまったら、地元の者が植え替えるよう命じました。
次男の織田信雄は天正18年(1590年)1月に、小田原征伐のため路幅五間(約8.6メートル)もの街道整備を命じます。
これは通常を大きく超える街道を整備することで、自身の威信をアピールしたかったのでしょう。
しかしこの無茶ぶりに対して地元から猛反発を受けたらしく、翌月には三間(約5.1メートル)でよいと訂正しています。
いらん見栄を張るんじゃない。そういうとこやぞ。あの世から、信長のツッコミが入ったかもしれませんね。
終わりに
中国大返しの成功は、あらかじめ街道を整備しておいたことも大きい。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
今回は信長の道路施策を紹介してきました。古今東西、道路は日常生活だけでなく、様々なものを行き交わせた社会の動脈と言えるでしょう。
第28回放送「急げ!秀吉」では中国大返しが描かれましたが、これも日ごろから街道整備を徹底してきたことが活きたと考えられています。
道路を制する者は天下を制する。信長から受け継がれた思想と精神が、秀吉の天下獲りを実現に近づけたのではないでしょうか。
※参考文献:
盛本昌広『増補新版 戦国合戦の舞台裏 兵士たちの出陣から退陣まで』洋泉社、2016年9月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan