『豊臣兄弟!』茶々=悪女はほぼ創作?秀吉が溺愛、豊臣家滅亡を背負わされた茶々(井上和)の壮絶すぎる生涯
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第30話『清須会議』。
いよいよ、8月9日の放送で浅井長政(中島歩)とお市(宮﨑あおい)の長女・茶々(井上和)が登場します。
茶々は、“戦国一の絶世の美女”といわれ、天下人・豊臣秀吉の側室「淀殿」となり溺愛され、正室も他の側室の間にもできなかった後継を授かります。
ところが、稀代の悪女・策略家・豊臣を滅亡させた女と噂され、さらには、江戸時代になると「蛇女」にされた物語まで誕生。
茶々にまつわるこの悪評のほとんどは「創作」です。
近年では、そんな創作された「悪女・わがままな女性=茶々(淀殿)像」を見直す時期ともいわれています。
幼い頃に実の父が籠城の末に自刃・母親違いの兄は殺されお家は滅亡・伯父信長の元に身を寄せるも伯父は謀反により死亡。
さらに、母が25歳も年上の柴田勝家と再婚するも、秀吉に敗れ共に籠城・自害。
茶々は、生まれてから15歳くらいまでの間ですでに、戦に翻弄され続けました。その後、秀吉の側室になりさらなる怒涛の人生が始まるのですが……。
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城の中の不穏な空気と物音に覚えて泣く茶々。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)
「気の強い女性という印象」が変わった茶々役をオーディションを経て射止めたのは乃木坂46の“次世代エース”といわれる井上和(なぎ)さん。
茶々の人物像について……
「(最初は)気の強い女性という印象が強かったです。しかし調べていくうちに、実は自分の大切な人のために最善の策を取ろうと強く立ち続けた女性なのだと知りました。」
そうです。
以前、「戦国時代=合戦=男性中心」になりがちなので、「豊臣兄弟!」では、意識的に女性のキャストを増やしたとドラマの制作サイドが語っていました。
さらに、「若い世代の活躍が同作の見どころの一つ」とのことで、高橋優香子プロデューサーによると「年齢以上(21歳)の落ち着きと妖艶さを見せてくれた井上和さんを茶々に抜擢した」そうです。
『清洲会議』の予告で、「お前は母上をなんだと思っておるのだ」というセリフと毅然とした表情で初登場した茶々。
これから背負う激動の人生を覚悟しているかのような、少女ながらも浅井の長女として聡明で肝が据わった気丈さを感じました。
従来の創作された「男を振り回す悪女」ではなく、戦国時代を戦っていく強き新しい茶々像を見せてくれそうで楽しみです。
浅井長政とお市の長女・茶々。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトよち
「茶々は長政の子ではない」説も茶々は誕生からして「謎」があります。それは実は、浅井長政の実子ではない説です。
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豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)は浅井長政の実子ではなかった!?お市の方、連れ子説を検証する日本で最大級の歴史百科事典『国史大辞典』では、茶々は長政とお市の子で、同母妹に初(常高院)と江(崇源院)がいる浅井三姉妹の長女と記してあり、生年は永禄12 年(1569)頃とあります。(永禄10年説も)
そのため、「長政の実子ではない説」は後世の軍記物や二次的解釈に基づく創作とされています。
「実子ではない」理由としては……
・江戸時代に成立した軍記『浅井三代記』に、茶々の誕生に関する記述がないのでお市の連れ子の可能性
・次女に「初(はつ)」と名付けているので、茶々が長女ではない可能性
・浅井家の菩提寺・徳勝寺に茶々の位牌がない
などですが、根拠は薄いそう。
いずれにしても「茶々は長政の実子に非ず」と、直接記した同時代史料や信頼性の高い一次史料は存在しないそうです。
「豊臣兄弟!」のドラマ第12回『小谷城の再会』では、お市が赤ん坊の茶々を秀吉(池松壮亮)に渡し、秀吉が「かわいいのぉ」と目を細めてあやす衝撃的な場面がありました。
「これが後の世に豊臣家を創った者と、終わらせた者の出会いでございました」
という戦慄のナレーションがぴったり過ぎて、SNSでも話題になっていましたね。
このとき、赤ん坊の茶々が0歳だとしたら、天文6年(1537)生まれの秀吉は32歳。
この赤ちゃんを側室にするとは……そういう意味でも戦慄する場面でした。
赤子の茶々をあやす秀吉と小一郎。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
「茶々はそんな弱虫ではありませぬ」天正元年(1573)、織田信長軍勢による小谷城総攻撃の末、浅井長政は籠城の末、自害。
史実では、茶々と妹たちは共に母・お市に連れられて織田信長の弟・織田信包のもとに保護されたといわれています。(信長の伯父・織田信次に預けられ、信次の死後、信長の元に預けられたとも)
ドラマでは、三姉妹とお市は伯父であり父の仇でもある織田信長(小栗旬)のもとに身を寄せました。茶々はこの頃4〜5歳でした。
初めて信長と会った場面。「わしが怖くないのか」と言われ「怖くありませぬ。茶々はそんな弱虫ではありませぬ」とギュッと握り拳を胸に当てて、キッと魔王を睨みつけた幼い茶々が印象的でした。
幼い頃から聡明だったと伝わる茶々。
詳しい事情はすべて理解できなくても、5歳なら両親・姉妹・兄と仲良く暮らしていたのに「この魔王のせいで奪われた」ことを直感的に察していたのかもしれません。
浅井家の長女として、母や妹たちを守る……そんな覚悟を持っているようにも感じました。
このドラマは、「未来へのロングパスとなる伏線を張る」のが特徴。
「織田の家」を守りたかった母・お市とは違い、茶々は父・長政の代で滅亡した「浅井の家」に対する思いを、「豊臣の家」の人間になっても生涯持ち続けるような気がしました。
とても気丈だった幼い頃の茶々。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
ずっと父・長政が作ってくれた「浅井」の紋をお守りに第18回『羽柴兄弟!』で登場した、茶々が胸元に忍ばせていた父が作ってくれたお守り。
死を覚悟した長政が、3つ合わせると浅井家の家紋「三つ盛亀甲に花菱」になる木彫りのパーツを作り、それを袋に入れたお守りを三姉妹に託すというエピソードがありました。
茶々がそのお守りを胸元に忍ばせていたのです。それをギュッと握りしめたのは、浅井の家と父に対する思いがあったのでしょう。
このお守り、きっとずっと淀君になって亡くなるまで持ち続けるのではないでしょうか。(ドラマでは主人公の豊臣秀長が亡くなってから20年以上先のことなので描かれないとは思いますが)
「三つ盛亀甲に花菱」は浅井家ではなく浅井長政自身の紋だとされています。
幼い茶々の手のひらに包まれた父・浅井長政が作った家紋。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)
15歳までの間に二人の父と一人の母の死、二度の落城信長が「本能寺の変」で自死後。
史実では、清洲会議で柴田勝家と秀吉が申し合わせて、会議で承諾を得た後にお市は娘たちを連れて勝家と再婚。
その後、秀吉と勝家は対立し、翌天正11(1583)年に賤ヶ岳の戦いに突入し勝家が敗れます。
お市の方は夫とともに自害し、残された三姉妹は勝者である秀吉の庇護下に置かれました。このとき、茶々は14〜15歳頃。(織田信雄が三姉妹を発見して面倒をみたなど、諸説あります)
『渓心院文』によるとこの時期に茶々は、秀吉に側室になるよう求められたとか。茶々は、その条件として「妹たちの縁組を整えるよう」求め、それぞれを嫁がせました。
茶々が秀吉の側室になったのは天正14年(1586)〜天正17年(1589)頃で、17〜20歳くらいで嫁いだとされています。
秀吉との年齢差が32歳くらいだとすると、50代の男性の側室になったことに……。
茶々は、なぜ自分の実父・義理の父・実の母を死に追いやった秀吉の側室になったのでしょうか?
秀吉がなぜ茶々を側室に求めたか?まだ20歳前後の茶々が、なぜ秀吉の側室になることを承知したのか?という理由については不明です。
秀吉がなぜ茶々を求めたか?という理由については…複数の説があります。
・秀吉が無類の「女好き」だった
秀吉は自他共に認める無類の「女好き」で知られ、一説によると側室の数は20人ほどだったとか。そんな秀吉なので絶世の美女だった茶々に目をつけた
・憧れの「お市」の面影があった
秀吉は昔からお市に惹かれていたので、お市に似ている茶々に惹かれた
「織田信長の血」が欲しかったから
ずっと忠義を尽くし憧れていた「織田信長の血」を残したかった
・正室の寧々との間に子ができなかったから
正室の寧々(北政所)との間に子供ができず、天下人として男児の後継が必要だったので、若い茶々なら「子を成せる」と期待した
・百姓の出と容姿へのコンプレックスがあった
ルイス・フロイスの『日本史』には、秀吉の言葉として
「予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」という記述があるとか。
秀吉は自分の容姿や百姓という出自にコンプレックスを持っていたために、織田信長の血を引く絶世の美女を側室にして、自身のクラス感をあげたかたった
など。全ての要素が含まれていたのかもしれません。
今後、どのような茶々・淀殿を見せてくれるのか期待される井上和さん。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
秀吉がなぜ茶々を側室に求めたか?天正17年(1589)、側室にしてすぐ、茶々は懐妊。大喜びの秀吉は弟・秀長を後見人にして、細川忠興を補佐として、山城の淀城を改築して茶々に与えます。
お産のために城を与えられた側室は茶々だけだったとか。その頃から「淀殿」と呼ばれるようになります。
(「淀君」は江戸以降に使われた通称。悪女のイメージをつけるためにわざと遊女に用いる名前「君」を付けたという説ほか、これに関してはさまざまな説があります)
けれども生まれた鶴松は天正19年(1591)に死亡します。淀殿は再び翌年に懐妊し次男秀頼(幼名は拾丸)を出産しています。
秀吉の正妻も側室たちも誰も妊娠しなかったのに、淀殿は2回も妊娠出産していることから、「秀頼は秀吉の子ではない」説が浮上し、それが悪女伝説に繋がったともいわれています。
ここから、茶々こと淀殿は、さらなる激動の人生と悲劇が待ち構えているのでした。そんな彼女の運命は、また続編にて。
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