朝ドラ『風、薫る』りんが書いた“看護のいろは”は実在!黒川医師と明治のナイチンゲール・大関和の看護黎明期
NHK連続テレビ小説「風、薫る」。7月最終週のテーマは『岐路にて』でした。
新潟で一ノ瀬りん(見上愛)は、帝国大学病院時代の医師・黒川勝治(平埜生成)と再会し「看護婦をやらないか」と誘われます。
岐路に立ち悩むりん。
そんな彼女に黒川は「“看護の基本”を紙にまとめて欲しい」と頼みました。
自分が院長を務める「知命堂病院」で看護婦の募集をかけたいが「新潟では東京以上に、看病婦への偏見が残っていて人材が集まらない。謝礼は払うのでお願いします」とのこと。
承諾し、紙に筆で「看護のいろは」としたためつつ、何かを思い浮かべたように複雑な表情を浮かべるりん。
実際、りんのモデル・大関和も「看護のいろは」となる教本を書き、看護を目指す多くの人々が読むようになりました。
前回は、りんのモデル・大関和が看護婦に戻った理由をご紹介しました。
※前回の記事:
今回は、実際にこの二人の偶然の再会から始まった「日本の看護の黎明期」と「明治のトレインドナースの誕生」をご紹介しましょう。
黒川との再会は、一ノ瀬りんを「明治のナイチンゲール」として誕生させた (NHK「風、薫る」公式サイトより)
※ドラマの時代設定に合わせ「看護師」ではなく当時のままの「看護婦」と表記しています。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介しています。
黒川医師は、病院では東京弁でしたが、地元では新潟弁も出て「温かみがでた!」とSNSでも注目されていました。
ドラマでは、この二人の再会はりんの運命を大きく変えていきますが、史実でもほぼ同じです。
「看護の重要さ」を感じていた瀬尾は、和とともに「看護婦養成」に尽力。さらに感染が広がった地域に和と医師を派遣し防疫に協力したのです。
※関連記事:
朝ドラ【風、薫る】りんの人生を動かす外科助手・黒川勝治(平埜生成)…実在モデル・瀬尾原始の実像そこで、見事な感染症対策を行なった和は『感染症のプロ』としてその名を轟かせるほど有名な人物となりました。
まさに二人の再会は、「看護の黎明期」の幕開けとなったのでした。
大学病院時代は、ちょっと話しかけづらい感じだった黒川医師。(NHK「風、薫る」公式サイト)
看護婦の養成にも尽力した瀬尾原始黒川のモデル・瀬尾原始は、知命堂病院の院長として「看護婦の養成」や「医師の養成」に尽力した人です。
明治24年(1891)に大関和を知命堂病院の看護婦長として迎い入れた後、和の力を借りて院内看護婦教育を行います。
さらに、明治27年(1894)には知命堂病院附属産婆看護婦養成所を開設。和とともに、県初の看護婦養成を行います。
「看護の未来」を考えていた瀬尾原始。
ドラマの黒川先生は、帝国大学病院時代から、りんがスキルと患者のことを親身になって思う気持ちもの両方を持っているところが「自分の片腕となる」と考えていたように思います、
実際、瀬尾原始と大関和の関係は『医師と看護婦は車の両輪のごとし』という有志共立東京病院(のちの東京慈恵医科大学附属病院)の創設者・高木兼寛の言葉を思い出します。
帝国大学病院時代、和は看護婦・看病婦の労働環境改善を訴え、男性医師らから反感を買いました。
そんななか、元来、温厚な性格の瀬尾原始は態度を変えることなく接してくれたそうです。
病院では看護婦志望の女性たちに、りんと共に講義を行なっていた黒川医師(NHK「風、薫る」公式サイトより)
学んだ「看護の基本」は頭も心も覚えていた今回、往診した黒川医師はりんの適切な処置に「看護の腕は衰えていない」と確信します。
けれども、まだ復帰に自信のないりんに「知命堂病院」の看護婦募集に役立てたいので「看護の基本を紙にまとめてくれないか」と依頼しました。
もしかしたら、りんが「看護の基本」を書くうちに自信を取り戻し、現場復帰につながるのでは?と考えたのかもしれません。
看護婦養成所で英語の翻訳に頭を悩ませながらも皆で学んだ、ナイチンゲールの『NOTES ON NURSING』。
その中には、看護の基本は「自然が患者に働きやすいように最もよい状態におくことである」とありました。
そして、「患者のもてる生命力を最大限に発揮できるように、呼吸する空気、水、日光、食物、身体の清潔や住居の衛生などを整えること」でした。
そのために重要なのは、患者を常に『observe=観察』すること。さらに、看護婦自身が「感染しないこと」も重要でした。
看護婦養成所時代何度も読んだ、バイブル『NOTES ON NURSING』。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
「この人は看護の現場に戻るべき」と確信した黒川以前、バーンズ先生が看護学生たちに教えた
「あなたたちの“手”は、数百、数千倍の人を助ける“手”。」という言葉を覚えている人も多いでしょう。
看護婦が感染しないよう注意することが大切だという意味でした。
ドラマでは、りんは倒れた生徒を看護する際、ほかの生徒たちに感染しないよう指示を出していましたね。
生徒に「先生は?」と聞かれ、「私は感染しない方法を知っているから大丈夫」と。
細かくは描かれませんでしたが、「感染対策をしつつ観察して看護する」を実践したりん。
身に染み付いた「看護の基本」は忘れていませんでした。
黒川先生もそこに気づき「この人は看護の現場に戻るべき」という思いを固めたのだと思います。
脈を取る手が震えなかったのは「これが娘だったら」と思ったから。(NHK「風、薫る」公式「X」より)
「派出看護」を手伝う傍ら書いた「看護の基本」実際、大関和は、ナイチンゲールの「Notes on Nursing」のような著書を出しています。
1つは明治32年(1899)刊行の『派出看護婦心得』。
ちょうど、直美のモデル・鈴木雅が帝国大学病院を退職して「慈善看護婦会」を立ち上げたのが軌道に乗り「東京看護婦会」に改称、附属の看護婦講習所を設立したころです。
和は婦長として働くかたわら、知命堂病院附属産婆看護婦養成所から卒業生を輩出。黒川と共に、同病院を新潟における看護婦養成の一大拠点とすることに成功した頃でした。
ある程度の役割を果たした和は、大変そうな雅を手助けするために上京します。
その頃、明治27年(1894)〜翌年にかけて行われた日清戦争で、急激に派出看護の需要が増加しました。
戦後の伝染病の蔓延、戦争中の篤志看護婦の活躍の影響で看護婦志願者が急増したことが原因です。
そして、最も問題だったのは、当時は看護婦資格や派出看護婦会の基準に定めがないことでした。
そのため、知識のない素人が派出看護会をはじめ、玉石混合のカオス状況に。素人の少女に適当な「看護」を教えて看護婦と偽り派遣したり、「看護婦は派遣先の家で体を売っている」などデマが飛び交ったりもしました。
このままでは看護婦の評判が悪くなる考えた和と雅。
和は知人のコネを使い内務省衛生局に直訴、雅は「東京看護婦会講習所」を設立して看護婦の養成に務めました。
明治32年(1899)に出版した『看護婦派出心得』は、版を重ねるほど看護婦を目指す多くの人に読み継がれました。
派出看護婦の会が発足。結婚したしのぶが派出看護婦をやってくれることに。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
ナイチンゲールの看護方法がいかされた本『看護婦派出心得』の冒頭(下の写真参照)
〜「夫れ看護婦たらんとする者は、先ず普通の看護学を修むるを要す。精神に於ては仁慈、敬愛、温和、忍耐、謙遜にして挙動静粛、品行方正、言語を慎み…患者に対しては、貴賎上下の別なく一様に信愛を以てその本分を尽さざるべからず」〜
看護学を身に付けるだけではなく精神的なことも必要で、患者には貴賎はないことなども書かれています。
さらに、患者宅では環境が衛生的であることとともに看護婦の感染対策にも触れています。
まさに看護養成所で学んだナイチンゲール方式の看護学そのものですね。
さらに、患者向けの食事の作り方や感染患者の看護の心得、死体の取り扱い方までも。明治時代、ここまで細かく派出看護のノウハウを書き込んだものはなかったそうです。
大関和 著『派出看護婦心得』,看護婦会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/935171 (参照 2026-07-31)
大関和 著『派出看護婦心得』,看護婦会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/935171 (参照 2026-07-31)
『実地看護法』も読み継がれる「看護の基本」にその後、和は明治41年(1908)に『実地看護法』という著作物を刊行しています。1926年までに第5版を数えるほど読み継がれました。
同書の目次は、
看護法・伝染病・普通内科病に分かれてます。さらに救急法、医学用語の解説、流動食の調理方法などの知識が幅広く掲載され、巻末には『派出看護婦心得』が再録してあります。
『実地看護法』は、さまざまな病気や怪我の症状に対する看護方法が書いてあり医学書そのもの。和は「医師と対等、あるいはそれ以上の知識があった」ともいわれますが、それが頷ける内容です。
そして、「治療や薬、清潔を保つことは患者にとって大切。それを患者に伝えられるよう、知識を持って対応する」としています。
ただし、患者に誠実に向きあう=自己犠牲になってはいけない。
そのためには、看護婦自身の休息や体調管理の重要性を訴えています。
「看護は滅法奉仕であってはならず、それにともなう報酬は大切。派出看護婦の報酬と地位を上げることが、女性の地位向上と自立に繋がる」と、大局で物事を考えた鈴木雅の考えに影響を受けているような気がします。
『実地看護法』大関和著 大関和 著『実地看護法』,新友館,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/921870 (参照 2026-07-31)
日本の看護の黎明期が始まる来週は、第19週『黎明の翼』。
黎明(れいめい)とは、「明け方」「夜明け」などの意味で、物事が始まるとき、新しい文化が始まるときという意味があります。
村で赤痢が発症し、りんは黒川医師から「防疫に力を貸してほしい」と頼まれ感染渦中の村へ。
いよいよ、赤痢の村で、看護婦に戻ったりんと黒川医師の戦いが始まります。
赤痢の村へ防疫に来た黒川医師とりん。(NHK「風、薫る」公式サイトより
実際、まだ「感染対策」や「衛生意識」という観念がなかった明治時代。夏になると全国的に赤痢患者が増え、高田から離れた山村でも集団感染が発生したそうです。
この時代は、伝染病に罹患してもおまじないや加持祈祷に頼る人がほとんどでした。そのため、医師が井戸に「毒を混入した」などのデマが流れ、村人らが医師を殺す事件も起こったそうです。
和も、感染対策に出向いた村で、鎌を持って集まった村人たちに脅される経験をしました。けれども、恐れず防疫のために尽力し入院後の死者を激減。
世間に「いかに衛生環境を整えることが重要か」を知らしめることとなったのです。
まさに、大関和は、黒川医師と再会したことで、日本に感染症対策の意識を根付かせる『黎明の翼』となり偉業をなしとげたのでした。
参考:
医療法人知命堂病院 公式HP
『明治のナイチンゲール 大関和物語』田中ひかる著
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

