世界遺産決定で脚光!日本初の巨大都城・藤原京を創り上げた知られざる女帝・持統天皇の凄絶な執念

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世界遺産決定で脚光!日本初の巨大都城・藤原京を創り上げた知られざる女帝・持統天皇の凄絶な執念

日本の歴史において、時代の転換点となった象徴的な出来事の一つが「藤原京の造営」です。

巨大な都を完成させ、古代国家の骨格を決定づけた背景には、飛鳥時代末期に君臨した女性天皇・持統天皇(じとうてんのう)の存在がありました。

藤原宮跡を含む「飛鳥・藤原の宮都」は、令和8(2026)年7月に世界文化遺産への登録を果たしました。宮殿、役所、寺院、古墳など19の構成資産は、律令に基づく中央集権国家の成立過程を物語る貴重な遺跡群として高く評価されています。

なお、今日私たちが目にする復元画像や模型に描かれた都市景観は、発掘成果を基礎とした推定復元です。屋根や壁の色、建物内部、そして当時の人々の日常まで、すべてが史料によって解明されているわけではありません。

藤原京は当時の社会に何をもたらし、日本という国家をどのように変えたのでしょうか。 藤原京の成立過程と、持統天皇の足跡について詳しく見ていきましょう。

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壬申の乱から即位へ――鸕野讃良皇女が継承した天武天皇の国家構想

持統天皇は大化元(645)年ごろ、天智天皇の第二皇女として生まれました。

即位前の名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)です。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘で、大海人皇子(後の天武天皇)の妃となり、草壁皇子をもうけました。

天智天皇10(671)年、大海人皇子が近江大津宮を離れて吉野へ退くと、鸕野讃良皇女も同行しました。

翌天武元(672)年の壬申の乱では、大海人皇子は大友皇子側を破り、天武2(673)年、飛鳥浄御原宮で即位しました。このとき、鸕野讃良皇女は皇后となり、新政権を支える立場に立ちます。

天武天皇は、豪族ごとに分かれていた支配秩序を再編。天皇を中心とする国家制度を整えようとしました。

天武10(681)年には律令編纂を命じ、天武13(684)年には新しい宮室の予定地を定めています。

『日本書紀』には、天武5(676)年の段階ですでに新都造営へ動き始めていたとみられる記事もあります。

発掘調査でも、藤原宮の建物や運河より古い道路跡である「先行条坊」が確認されています。本薬師寺の下からも同様の道路が見つかっているため、藤原京の道路網は持統天皇の時代に突然造られたのではなく、天武朝から段階的に工事が進められていたと考えられます。

朱鳥元(686)年に天武天皇が崩御すると、皇后はただちに即位せず、天皇に準じて政務を執る「称制」を行いました。

同年には大津皇子が謀反の疑いで死を賜り、持統3(689)年には皇位継承者だった草壁皇子も亡くなります。皇后は同年に飛鳥浄御原令を施行し、翌持統4(690)年に即位しました。

即位した年には、全国的な戸籍である庚寅年籍が作成されました。

戸籍は、人々の身分や家族構成を把握し、口分田の支給、租税、兵役などを運用する基礎となるものです。

法律、戸籍、官僚組織を実際に機能させるには、多数の役人が働き、地方からの報告や税を集められる恒久的な行政都市が必要でした。

藤原京造営は、宮殿の新築にとどまらない国家制度の整備だったのです。

天武天皇御影。律令国家の仕組みづくりは妻の持統天皇に受け継がれた。

官人への宅地支給と藤原宮遷都ー巨大都城が支えた律令政治ー

持統天皇は、国家体制の整備に邁進していきます。

持統4(690)年10月、持統天皇は皇子の中で高い地位にあった高市皇子に、藤原宮予定地を視察させました。

翌持統5(691)年には京域の地鎮が行われ、官人には官位に応じた宅地が支給されます。これは、朝廷に仕える役人を都の内部に住まわせ、早朝から宮中の政務に参加させるための都市政策でした。

持統6(692)年には、持統天皇自身が藤原京の道路を視察。持統8(694)年12月、朝廷は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移りました。

宮域は約900メートル四方で高い大垣に囲まれ、中央には天皇の居所である内裏、国家的な儀式を行う大極殿、官人が政務や儀式に参加する朝堂院が配置されました。

その東西には、行政実務を担う二官八省などの役所が集められています。

藤原宮の主要建物では、それまでの飛鳥の宮殿とは異なり、礎石の上に柱を立て、屋根を瓦で葺く中国風の建築が本格的に採用されました。

宮殿と役所を一か所に集めた構造は、現在の皇居、国会議事堂、中央官庁街を一体化したような政治空間だったと説明できます。

宮の周囲には、碁盤目状の道路で区切られた条坊制の市街地が広がっていました。現在の発掘成果によれば、その範囲は大和三山を取り込む一辺約5.3キロメートルに及びます。

京内には官人の住宅、寺院、工房などが置かれ、地方から納められた物資も運び込まれました。

都市の正確な範囲については研究史上さまざまな説が提示されてきましたが、近年は平城京を上回る広い京域が想定されています。

持統11(697)年8月、持統天皇は孫の軽皇子に譲位。文武天皇が即位しました。

史上初めて太上天皇(上皇)となった持統はその後も政治に関与。文武4(700)年には大宝律令の編纂が命じられました。

大宝元(701)年に律令が完成すると、全国の官職、行政区画、租税、刑罰などを体系化した国家制度が藤原京を中心に運用されていきます。

大宝2(702)年12月22日、持統上皇は崩御しました。宝算58。日本の国家整備に人生を捧げ、今日まで続く仕組みの根幹を築き上げた生涯でした。

その後、藤原京は和銅3(710)年の平城京遷都まで、持統・文武・元明の三代にわたって政治の中心となり、都市機能や仕組みは平城京や平安京へ受け継がれました。

藤原京は、持統天皇一人が思い描いて造った都ではありません。

天武天皇が始めた法制と都城の整備を受け継ぎ、官人に土地を与え、道路と官庁を整え、戸籍に把握された人々と全国の地域社会を結びつけた巨大な行政装置でした。

その地中に残る道路、排水路、建物、木簡は、日本が恒久的な都を持つ律令国家へ変わっていく過程を、今も静かに伝えているのです。

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