朝ドラ「風、薫る」赤痢の村で刃物を向けられても…りんのモデル・大関和が命を救った防疫の実話
NHK連続朝のテレビ小説「風、薫る。第19週『黎明の翼』。
一ノ瀬りん(見上愛)は、新潟で再会した医師・黒川勝治(平埜生成)に「村で赤痢が発生した」ので手助けして欲しいと頼まれます。
「この町に看護婦は君しかいないんだ。力を貸して欲しい」
実際、りんのモデル・大関和は、黒川勝治のモデル瀬尾原始が院長を努める知名堂病院で看護婦長として働いていたころ、新潟の山村で集団発生した赤痢に立ち向かっています。
まだ病は加持祈祷やおまじないに頼っていた時代。
病に対する恐れや差別、防疫に訪れる医療従事者らへの偏見などが根強くありました。
村を訪れた大関和たちに、鎌を振り上げ殺気だった様子で追い返そうとする住民もいたとか。
実際、明治10年(1877)、集団感染の村に出向いた医師が「医者が毒を撒いた」というデマに煽られた村人たちに殺される事件も起こっています。
そんなさまざまな恐怖や困難の中、和は使命感から「感染を防ぐ」という偉業を成し遂げたのでした。
防疫と看護に訪れた黒川病院の医師や看護婦らを受け入れられない村人たち。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
「看護婦の手はたくさんの人の命を助ける手」黒川医師に赤痢の村への同行を頼まれたとき、りんの第一声は「最初の患者はいつ?」でした。
やはり、一ノ瀬りんの中には“看護師”が息づいている……と思わされた瞬間。
躊躇して一度は断わったものの、やはり、バーンズ先生(エマ・ハワード/モデルは養成所時代の先生アグネス・ヴェッチ)の言葉は、しっかり心の中に残っていましたね。
「あなたたちの“手”は、家族の数百、数千倍の人を助ける“手”。」
そんな“手”を持っている看護婦は今、高田には自分一人しかいない……「自分がやるしかない」と決意し腹を括ったようでした。
ドラマでは、黒川医師や看病婦とともに、必要な物資を大八車に山のように積んで感染者の蔓延する村へ。この時代の防疫班がいかに大変だったかが伺える場面でした。
さっそく直面したのは、医療班に対する「隔離されたら死ぬ」と誤解した村人たちの抵抗でした。
物資を積み込み、町から2時間離れた村へ出向く黒川病院の人々とりん。(NHK「風、薫る!」公式「X」より)
「避病院へ隔離」する医師や警察への抵抗明治時代、感染者を避病院へ隔離する警察や医者は嫌われました。
「いやだ いやだよ じゅんさはいや嫌だ じゅんさ コレラの先走り チョイトチョイト」
明治15年頃には、巡査をからかうような「チョイトチョイト節」が人々の間で流行るほどでした。
この流行り歌には当時の人々が、何よりも「避病院への強制隔離」を嫌がっていたのかが、表現されています。
というのも、実際に「病院」とは名ばかりで「避病院」は、仮設の質素な小屋だったからです。
常在医師はおらず派出看護婦の数も足らず、ここに運ばれた患者のほとんどは、十分な医療や看護を受けることなく死亡したそうです。
(書評「長与専斉と内務省の衛生行政」大森弘喜)
そのため、感染者は「避病院」には行きたくないと抗ったのでした。
デマを妄信し感染症専門医師を殺した事件ドラマの原案伝記小説では、村に出向く道すがら、緊張や不安からか看病婦たちが「過去の事件」を語り合います。
それは、「千葉の鴨川の医師殺人事件」のことでした。
コレラが大流行した明治10年(1877)。千葉県では300人を大幅に超える死亡者が発生。鴨川でコレラ患者が発生したため、医師・沼野玄昌は現地に出向き、死者の火葬や井戸の消毒などの防疫活動に励みました。
ところが住人たちの間では「あの医者は、井戸に毒を入れた」「患者の生肝を抜いて殺す」など、まったく根拠のないデマが拡大。
それを妄信した住人たちは、鎌や槍などで玄昌を襲って殺したのでした。
沼野玄昌は西洋医学を学び、伝染病対策に熱心に取り組んでいた医師だったそう。
住人たちは「“命を救う手”を持った医者」を自らの手で失ってしまったのでした。
大関和たちも、さぞ不安だったと思います。
けれども、和は「医療が信用されるようになればそんなことも起こらなくなる」といい、果敢に「避病院の改善」に乗り出したのでした。
感染した患者を大八車に乗せて避病院に運ぶ、りんと黒川医師。(NHK「風、薫る」公式サイト)
ナイチンゲールが行った野戦病院改善の方法を行う村の男たちの激しい抵抗に遭いつつも、和は、臆することなく女性たちには「病人のために大量の粥を作ること」男性たちには「外に衛生的な厠作り」を指示しました。
原案伝記小説によると、避病院に厠がなく患者が外で所構わず用を足してしまうために排泄物が放置されることが問題だと考えたそうです。
さらに、床を掃除して石炭酸で消毒。患者自身の身体も清潔にして、重病者と軽傷者に分け、定期的にお粥を与え、患者にも看病する側にも手洗いを徹底させました。
和たちが行ったこの防疫方法は、クリミア戦争の野戦病院でナイチンゲールが行った行動と同じでした。
同女が派遣されたトルコの陸軍病院も非常に粗悪な構造で、不衛生・換気なし・患者は衣類を着たきりほか、かなり劣悪な環境だったそうです。
ナイチンゲールは環境の改善や清潔に努め、必要な物資は自腹で購入し、患者の兵士たちの身体と心の両面からケアしたのでした。
結果、その感染症対策が行き渡り最大死亡率が42.7%だったものが数ヶ月で2.2%までに下げるという、奇跡のような偉業を成し遂げていたのでした。
看護師として戦傷兵を見舞うナイチンゲール 1855(wiki)
「感染の広がり=国難」と捉えた大関和大関和の徹底的な感染対策により、入院後の患者の死亡数は激減。患者の衛生環境を整えることがいかに重要かを世間に知らしめることとなりました。
和は、のちに執筆した『看護婦派出心得』に「なぜ伝染病対策に熱心に取り組むか?」の理由を書いています。
「伝染病の如きは、独り病人を看護するのみの目的にあらずして、一家村市都府あるいは全国にも及ぼすものなれば、看護婦の任、又大なりといわざるべからず。」
「看護を以て天職となすもの、この国難に際し、不幸なる同胞を助け」
大関和は、感染が広がり蔓延することを「国難」と捉えていたのでした。(下の赤線部分参照)
『派出看護婦心得』大関和 著 国立国会図書館デジタルコレクション
「看護婦」の重要さを目の当たりにした女学生たち「風、薫る」のドラマの中でもそれを思わせるシーンがありました。
りんが「感染の村に防疫のために出向きたい」と、勤め先の女学校の望月勘治校長(関智一)に頭を下げてお願いする場面です。
心配する校長先生に「その村からさらに感染が広まれば元も子もありません。お願いします。」と。
その考えに頷けるものを感じたのか、校長はりんに休暇を与えたのでした。
村に出向くりんに、いつも利用している飴屋『ささがわ屋』の飴やお菓子を差し出す生徒たち。
最初、りんに出会ったとき、生徒たちは「看護婦なんか」と無意識にさげずむような言葉を言っていました。
そんな彼女たちも、先生の覚悟を目の当たりにして、看護婦という仕事の重要さを理解したのでしょう。
黒川病院こと知名堂病院では、実際に明治27年(1894)には県内初の看護婦養成所となる「知名堂病院付属産婆看護婦養成所」を創設します。
大関和の姿に感銘を受け、看護婦を目指して知名堂病院の養成所に入る……そんな生徒がいたかもしれませんね。
“その先”に広がる感染を見事に防いだ大関和の功績看護婦の“手”は数百、数千の命を助ける……バーンズ先生の言葉が、改めて鮮やかに蘇る第19週『黎明の翼』。
史実でも、劇的な効果を上げた大関和の名声は全国へ広がり、各地から防疫の依頼が殺到、和は看護婦たちを率いて対策に向かう活動も行いました。
『大正期の職業婦人』の著者、女性史研究家の村上信彦は
「群馬県の九十九村では100名の赤痢患者を扱って死者わずかに6名、埼玉県の加治村でも100名の赤痢患者のうち死者5名、あとは全員完治させている。(中略)当時の医療水準から考えればこれは奇蹟とも言うべきで、いかに看護の力が大きかったかをものがたっている」
と、記しています。
大関和が作った防疫の黎明期130年以上の時が経った今でも、患者の環境を衛生的に保つ、マスク・エプロン・手袋の装着、換気や消毒、手洗いをこまめに行う……など、和が示した感染症対策の基本は変わっていません。
病の治療を祈祷やおまじないなどに頼っていた時代に、「医療」という人々にとって未知なる武器で戦いを挑んだ大関和らは、さぞかし奇異な存在に思えたことでしょう。
現代でさえ、新型コロナウイルスの感染拡大期には、治療や看護にあたった医療従事者への理不尽な差別や偏見が起こりました。
ましてや「医療」「看護」の知識のない明治時代、防疫に対する強い誤解や敵意も強烈だったことと想像できます。
そんな状況の中、村人たちを説得して理解を深めて感染対策を成功に導いた大関和。「明治のナイチンゲール」と呼ばれるのがわかりますね。
髪を包む帽子、顔を覆うマスク、身体を覆う割烹着で看護に臨む。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
最後に……どんなに「AIの時代」といわれても、自分が病になったときの苦しさ・辛さ・不安は、「風、薫る」の時代と変わらないもの。
医療環境は格段に進歩している現代でも、一ノ瀬りんや黒川医師たちの活躍は、まるで今のことのように身近に感じます。
大関和という人物は、看護という天職にすべてを捧げ大忙しでありながらも、困っている人に寄付したりで一向にお金が貯まらない人だったとか。
借金を背負いつつ口癖は「金は天下の回り物(天下の持ち回り)」で、あるもの全部人にあげてしまっていたそう。
医療界の偉人でありながら、温かみと親しみを感じる人でもあったようです。
参考:
感染症と民衆 奥武則著
コレラ事件 館山市立博物館
ナイチンゲール看護研究所
大正期の職業婦人 村上信彦 著
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan