【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介
「主だった諸大名・家臣たちの娘たちを養女として召し上げ、その数は300人以上におよんだ。そして、彼女らが12歳になると己の情婦とした。大名たちの娘は美人という評判が立つと直ちに連行された。しかし、彼らは拒否しないばかりか、喜んで娘たちを差し出した。それはひとえに我が身の安全をはかるためだった」
これは、ポルトガル人宣教師でイエズス会士のルイス=フロイス(フェルナンデス直行)が『日本史』に記した証言です。そして、諸大名や家臣の娘を養女として迎え、情婦にしたとされる人物こそ、豊臣秀吉(池松壮亮)でした。
この証言が事実であるならば、秀吉の女性への執着は尋常ではなかったことになります。また、娘を差し出したとされる大名たちの行動も、現代の感覚ではにわかに信じ難いものです。
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醍醐の花見を題材にした浮世絵。「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」が表記されている(Wikipedia)
一般には、秀吉の側室は20人前後であったとされています。しかし、歴史を振り返れば、この人数が特別多いかと言えばそうとは言い切れません。
たとえば、秀吉と同時代を生きた徳川家康(松下洸平)も約20人の側室を抱えており、江戸幕府11代将軍・徳川家斉はさらに多くの側室を抱えていたことでも知られます。また、秀吉の甥・豊臣秀次(山田涼介)は30人以上の側室を抱えていたともいわれます。
そう考えると、フロイスの証言を単なる誇張として片付けることはできません。しかし問題となるのは、「秀吉が目を付けた少女たちを養女として育て、成長後に側室とした」という点でしょう。
しかし、この証言をそのまま史実と受け取ることもできません。フロイスは秀吉によるキリスト教政策に批判的で、自然とその人物評価も辛口になる傾向がありました。また、カトリックの価値観から男女関係を厳しく見る立場だったことも考慮する必要があります。
一方で、秀吉自身が秀次への訓戒状の中で「私のように女狂いになってはならない」と戒めていることから、自ら女性好きであったことは認めていたようです。
本稿では、秀吉の主だった側室たちを時系列で紹介し、それぞれの素顔や出自、そして豊臣政権に与えた影響などをたどっていきます。
秀吉最初の側室「南殿」と播磨攻略戦での「南の局」秀吉が初めて城持ち大名となったときの長浜城時代に抱えた側室とされるのが「南殿」です。長浜沖に浮かぶ竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)の竹生島文書にその名が見えますが、彼女の素性はよくわかっていません。
ただ南殿は淀殿(井上和)を除くと数少ない秀吉の子を産んだ女性とされます。それが秀吉の第一子となる石松丸(秀勝)ともう一人の女児で、二人とも幼くして亡くなっています。
正室の寧々(浜辺美波)が織田信長に秀吉の不貞を訴えたことはよく知られており、相手はこの南殿と思われます。いずれにせよ彼女は薄幸の女性だったようで二人の子を亡くした後、宝厳寺で出家し、1634年(寛永11年)に死去しました。
1580年(天正8年)5月、頑強に抵抗する鳥取城攻めの一環として攻略した鹿野城(しかのじょう)にいた鳥取城主山名豊国の娘あかねが「南の局」です。鹿野城を陥落させた秀吉は「南の局」を磔にして、豊国に鳥取城を明け渡すことを迫ります。
この事態に及び、ついに豊国が開城すると秀吉はあかねを助命し、自らの側室としました。
この後間もなく側室となる「姫路殿」同様に、長浜から遠く離れた播磨において、寧々の目が届かないのをいいことに、秀吉は二人の側室を囲っていたのです。
本能寺の変前後に側室とした「姫路殿」と「京極竜子」秀吉は主家である織田家から、確認できるだけでも二人の女性を側室にしています。その一人が信長の弟である織田信包の娘「姫路殿」で、秀吉は彼女を深く寵愛したといわれます。
1577年(天正5年)の播磨侵攻の頃に、秀吉の側室として信包が差し出したとか。しかしながら信長が存命中に、織田家一門衆の娘を養女ならまだしも側室として囲うのは身分的にも無理があり、本能寺の変後に側室とし、当時秀吉が長浜とともに拠点とした姫路城に置いていたのではないかと推測されます。
戦国時代きっての美女とされる「京極竜子」は、若狭守護の武田元明に嫁ぎ、二男一女をもうけていました。彼女の父は京極高吉、母は浅井久政の娘で、浅井長政は叔父にあたります。
本能寺の変が起きると、元明は明智光秀に味方したため山崎の合戦後、秀吉に自害を命じられてしまいます。そして、捕らえられた竜子は秀吉の側室となったのです。
竜子はその出自の高さと美貌で、秀吉から深い寵愛を受けます。秀吉は小田原征伐はもとより、朝鮮出兵の際にも名護屋城へ竜子を伴いました。
秀吉の死後は、兄の京極高次の住む大津城に身を寄せるも、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣の後は、六条河原で処刑された秀頼の嫡男・国松の遺体を引き取り、京都の誓願寺に埋葬したことでも知られます。1634年(寛永11年)9月に、京都西洞院の邸で死去しました。
関白の権威を彩った「摩阿姫」と「淀殿」若い頃から秀吉と親しく、天下人となってからは最も信頼された存在であった前田利家(大東駿介)の三女が加賀殿とも称された「摩阿姫」です。彼女が秀吉の側室となったのは、1586年(天正14年)頃と考えられています。
1594年(文禄3年)、秀吉は完成した伏見城へ居を移します。同城は関白職を甥の秀次に譲った秀吉が、隠居城として2年前から築いていた城でした。
しかし、1593年(文禄2年)、淀殿との間に秀頼が誕生したことで、京都聚楽第の秀次と伏見城の秀吉という二重権力ともいえる状況が生まれ、諸大名たちは聚楽第同様に伏見城の城下にも大名屋敷を構えるようになりました。
利家が伏見城下に屋敷を構えると、摩阿姫はそこに預けられます。父の屋敷に住むことを許された側室は彼女しかいないため、そこには秀吉と利家の主従関係を越えた特別な間柄が推察されるのです。
また「摩阿姫」は秀吉の存命中に側室を辞し、公卿の万里小路充房の側室となって男子を産んでいます。のちに充房とは離縁し、金沢に戻ると1605年(慶長10年)10月に同地で死去しました。
そして側室でありながら、寧々と並ぶ正室待遇であったのが茶々の名で知られる「淀殿」です。浅井長政(中島歩)と信長の妹・市(宮﨑あおい)の長女として生まれるも、長政の滅亡、市の再婚先の柴田勝家の滅亡という悲劇を経て、1586年(天正14年)10月頃に秀吉の側室となりました。
この時期は「摩阿姫」と同じで、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにより、秀吉が信長の後継者としての地位を固めたことと関係があるようです。
摩阿姫は古くからの盟友の娘であり、そして淀殿は旧主・信長の血を引く姪でした。もちろんそのあたりは秀吉も重々承知していたのでしょう、淀殿のために城(淀城)を築き、住まわせています。
そして淀殿は、1589年(天正17年)に同城で鶴松を出産しました。しかし鶴松はわずか3歳で夭折してしまいます。それでも淀殿は1592年(天正20年)に第二子・秀頼を出産します。
秀吉没後は、秀頼・淀殿と家康の対立構図となり、関ケ原の戦いを経て大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城は落城。淀殿と秀頼は自害し、ここに豊臣家は滅亡しました。
天下統一がもたらした「甲斐姫」「月桂院」「香の前」秀吉の側室の中でも、特異な存在といえるのが「甲斐姫」です。歴史小説『のぼうの城』に登場する彼女は、忍城城主・成田氏長の長女で小田原征伐の折り、一族郎党と忍城を守り抜いた武勇の姫君として知られます。
北条氏滅亡にともない開城した忍城を退去した甲斐姫は、氏長とともに蒲生氏郷の配下として会津に移ります。
陸奥国中部で発生した葛西大崎一揆では劣勢の中、得意の薙刀で敵将二人のうち一人を討ち取り、一人を捕縛したとも伝えられています。その武勇伝を聞いた秀吉が、甲斐姫を側室として召し出したのです。
ただ、大坂城での甲斐姫の生活ぶりを伝える史料が少ないために、実在性を疑う説もあります。しかし、近年になり彼女が醍醐の花見に列席した際に詠んだと考えられる和歌の短冊が発見されたこともあって、注目を集めるようになりました。
足利頼純の次女として生まれた「月桂院」は名を嶋といい、1588年(天正16年)、喜連川城主・塩谷惟久の正室となります。その2年後、奥州仕置で宇都宮城に入った秀吉に対し、惟久は妻を居城に置いたまま退去、逃亡しました。
嶋は実家足利家の救済を嘆願するため、宇都宮に出向いて秀吉と面会し、そのまま秀吉の側室になったといわれます。彼女の実家は、足利家の末流であり、また嫁ぎ先の塩谷家も源義家の血脈を引く名家でした。つまり月桂院は、秀吉側室の中で最も格式の高い家柄の出身であったわけです。
秀吉の死後、彼女は京都の東寺で出家。その後、家康にも召し出され、88歳の長寿を全うし江戸で死去しました。
「香の前」は名を種といい、その美貌を見初めた秀吉の側室となります。後に伊達政宗に下賜され、1598年(慶長3年)から政宗との間に男女合わせて二人の子をもうけました。
その後は政宗から重臣・茂庭綱元に下賜され、その側室となります。その際、政宗との子は実子として扱われています。男子は後に高清水城主・亘理宗根(わたりむねもと)となり、香の前はその庇護のもと余生を送り、1641年(寛永17年)、64歳で没しました。
織田信長の娘「三の丸殿」は、伏見城三の丸に住居を与えられていたことから、秀吉の側室となったのは伏見城築城時期である文禄年間(1592年から1596年)と考えられています。
織田家と縁のある娘を側室としたのは秀吉としては、織田信包の娘・姫路殿、市の娘・淀殿に続いて三人目。側室の序列としては、最も高い待遇を受けていたと考えられています。そのことからも、信長に対しての秀吉の気遣いが感じられるのではないでしょうか。
三の丸殿は秀吉没後は、摂関家の二条昭実と再婚、1603年(慶長8年)に死去しました。
朝鮮出兵の頃に迎えた広沢局そして、秀吉が晩年に側室としたのが「広沢局」です。彼女は、肥前垣添城主・名護屋経勝の娘で名を広子といいました。
朝鮮出兵のため名護屋城に在陣していた秀吉に見染められ、1593年(文禄2年)の夏ごろに側室になったと考えられます。明との講和が決裂し、再び朝鮮出兵が起きた1598年(慶長3年)にも広沢局は、名護屋城山里丸に住んでいたとされますが、同年秀吉が没すると出家したとされます。
以上、秀吉の代表的な側室11人について述べてきました。低い身分から一代で成り上がった秀吉はそのコンプレックスからか、足利家や織田家をはじめ、名門の娘たちを数多く側室に迎えました。
ただ、美女とみれば全員我がものにしようと考えていた節がある秀吉は、今回紹介した女性たち以外にも関係を持った女性がどれほどいたのかは想像もつきません。
冒頭に挙げたフロイスの記述をそのまま史実として受け取ることはできませんが、秀吉自身が「女狂い」であったことを認めていた事実を踏まえると、その証言には少なからぬ真実が含まれていたのかもしれません。
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