『豊臣兄弟!』お市と柴田勝家、自刃しての最期と「辞世の句」…運命を共にした2人の悲劇
8月9日(日)放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」第30回放送では「清須会議」の模様が描かれるようですが、清須会議の後、羽柴秀吉(池松壮亮)によって織田家筆頭の地位を脅かされつつあった柴田勝家(山口馬木也)は、織田信孝(結木滉星)と結んで秀吉に対抗しました。
そして天正11年(1583年)に秀吉との決戦(賤ヶ岳の合戦)に臨むも、武運つたなく敗れ去ります。
勝家は本拠地であった越前北ノ庄城(福井県福井市)へ立て籠もり、お市の方(宮崎あおい)と自刃して果てたのでした。
今回は「賤ヶ岳の戦い」の経過や戦功を記録した軍記『賤ヶ岳合戦記』より、二人の最期をたどってみたいと思います。
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4月23日午前、秀吉は味方の攻め太鼓など止めさせ、大声で北ノ庄城内へ呼びかける。
「昨日22日の夜に山中でご子息の権六殿(柴田権六)と玄蕃殿(佐久間盛政)を生け捕って参った。誠においたわしいことである」
これを聞いた城内の将兵たちは、静まり返って物音一つ立てず、門を固く閉ざしたままであった。
やがて夜になると殿守(天守)や大広間、その他あちこちの櫓など城内で酒宴が始まる。勝家は盃を傾けながら一族や家臣たちを集めて愚痴をこぼした。
「あの藤吉郎、猿冠者(さるかじゃ)のせいでこのようなことになってしまったのは、誠に無念でならない。まぁどうこう言っても始まらぬ。しょせん浮世は一酔の夢、明日には曙の雲と消えてしまうのだ」とか云々。
家臣の中村文荷斎(ぶんかさい)は銘酒の樽をありったけ並べ、豪勢なご馳走を並べて酒宴を取り仕切る。
また柴田弥右衛門尉(やえもんのじょう)に命じて城内くまなく酒と肴を届けさせ、至るところで将兵の盛り上がる声で沸き立った。
勝家はお市の方(小谷の御方)へ酌をさし、勝家も返盃をあおる。
また文荷斎や小島若狭守(わかさのかみ)にも酌をさし、皆で何度も盃を回して心ゆくまで痛飲した。
そして勝家がお市の方へ言う。
「あなたは亡き上様(信長)の妹君であらせられますから、よもや命はとられますまい。早く城から御出になってください」
これを聞いたお市の方は涙ぐみながら答える。
「去年の秋に岐阜から嫁いできたことは、前世からの因縁でしょう。今さら驚きもしませんし、ここから出ようとも思いません」
「しかし三人の娘たちには生き延びて私たちの菩提を弔い、またそれぞれに子孫を残してもらいましょう」
これを聞いた勝家は娘たちを呼び出して事情を話す。娘たちは母と一緒に最期を遂げたいと泣き悲しんだ。
しかし文荷斎は問答無用で娘たちを城外へ連れ出し、秀吉の元へ引き渡す。
やがて夜も更けて、夜半の鐘が響き渡ると、勝家とお市の方は寝所へ入る。
かつて四面楚歌に追い詰められた楚国の覇王項羽(こう う)と愛妾の虞美人(ぐびじん)の恨みと悲しみが思い出された。
城中の将兵はみな微睡み、ホトトギスの鳴き声が雲井町響き渡って別れの哀情を掻き立てる。
お市の方が辞世を詠む。
さらぬだに うちぬる程の 夏の夜の
別れをさそふ ほととぎすかな【歌意】夏の夜に名残を惜しんでいたら、ホトトギスが別れを促しています。何と無情なことでしょうか。
続けて勝家はこんな辞世を詠んだ。
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
雲居にあげよ 山ほととぎす【歌意】夢のように儚(はかな)い生涯であったが、ホトトギスよ、どうか我らの名が雲まで届くよう高らかに鳴き伝えてほしい。
ここに文荷斎も辞世を詠み添える。
契(ちぎり)あれや 涼しき道に ともなひて
後の世までも 事(つか)え仕えん【歌意】来世でも忠義を尽くしますので、どうかお供することをお許しください。
勝家は文荷斎の忠義を感じて柄にもなく感涙を流したと言う。
お市の方や他の女房たちは声を揃えて念誦称名(ねんじゅしょうみょう)を唱え、それがまた哀情を誘った。
小島若狭守と文荷斎があらかじめ天守に仕掛けておいた込草(こめぐさ。焚きつけ用の乾し草)に火をかける。
周囲に火が回ると、下人や下女らを退去させた勝家らは、天守の五階へ上った。そして燃え盛る炎の中で勝家とお市の方、ほか男女三十数名が自害して果てたのである。
時に天正11年4月24日、申刻(16:00ごろ)であった。
『賤ヶ岳合戦記』原文
勝家切腹之事
廿三日(23日)午前に攻鼓(よせだいこ)なとを止(とめ)よはゝりて(呼ばわりて)曰(いわく)
昨日廿二日(22日)之夜山中にて御子息権六殿並(ならびに)玄番殿を生捕て参候(さんそうろう)あな痛はしき御事にて候と呼はりぬ
是より城中ひそまりて音もせす其後(そののち)に請取し門々を防き守る計(ばかり)にてしか〳〵(しかじか)鉄炮も打す(撃たず)夜に入とひとしく殿守(天守)之上にも下にも広間其外(そのほか)櫓々なとにも酒宴はしまり(始まり)けり
勝家盃に向つゝ一族他家の人々をよひ並へ被申(もうされ)けるはあの藤吉郎猿くわしや(冠者)か為にかく成果る(なりはつる)事無念之次第とうかう(どうこう)云(言う)に及れす(及ばれず)所詮酒呑て明日はうき世の隙をあけほのゝ雲と消なんとて文荷斎それ〳〵と有しかは(ありしかば)名酒の樽共あまた置ならへ種々の肴を出しつゝ酒宴こそ始めけれ
弥右衛門尉に申付何れ(いずれ)の櫓にも酒を呑候へ(のみそうらえ)と樽肴給りしかは(たまわりしかば)何方(いずかた)も酒宴の声々聞へけり小谷の御かたへ勝家さし給へは一二酌て(くんで)又返し侍りけるに匠作(しょうさく。修理=勝家)も数盃をかたふけ(傾け)文荷斎にさし給ふ小島若狭守い酒宴の半にも四方を見廻しつゝ其品(そのしな)露心(つゆこころ)に忘れさりしかは心を安んし(やすんじ)ゆるやかに酒をそ愛しける盃も度々廻りけれは漸(ようやく)終なんとす
勝家小谷の御方に被申(もうされ)けるは御身は信長公の御妹なれは出させ給へつゝかもおはしますましきと有けれは
小谷の御方涙くませ給ふて去秋の終岐阜より参かくまみへぬる事も前世の宿業今更驚くへきに非す爰(ここ)を出去ん(いでさらん)事思ひもよらす候
しかはあれと三人の息女をは出し侍れ(はべれ)よ父の菩提をも問せ又みつから(自ら)か跡をも吊れん(つがれん)為そかしとの給へ(のたまえ)は
いと安き事なりとて其(その)よし姫君に申させ給ふ姉君いやとよ母上共に同し道にゆかん物をとなき悲ひ給ふを文荷斎其わけも聞入す(ききいれず)御手を取引立三人出し奉りぬ
〈此小谷の方ハ浅井備前守の後至三女ハ則備前守長政の息女後秀吉の室淀の方ハ其一女也〉
夜半(よわ)の鐘声(しょうせい/かね)殿守に至りしかは御二所(おふたところ)深閨(しんけい)に入ぬ
彼(かの)四面楚歌の夜の夢楚王虞氏か深き恨もかくやと思ひ出にけり
何れも櫓々へ引入まとろまん(微睡まん)とすれははや郭公(ホトトギス)雲井に音つれ別れを催し侍るに
小谷御方
さらぬたにうちぬる程も夏の夜の別をさそふほとゝきすかな
勝家
夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあけよ山時鳥
節義に当て不変者なれは同し道に侍らんとて
文荷斎
契あれやすゝしき道にともなひて後の世迄も事へ(つかえ)仕(つかえ)ん
となん詠ありけれは匠作猛き心もそれならす見へてさらに袖をそ濡されける
小谷の御方其外(そのほか)数々の女房達念誦称名(ねんじゅしょうみょう)の声哀れをとゝめけり
若狭守文荷斎殿守の下に込草をつみ置(積み置き)兼ての用意残処もなくさた(沙汰)し置しかは心静に火をかけ半燃出るに及て雑人原(ぞうにんばら)をは出しさて勝家のおはしましける五重に上り下はかく仕まい申候御心静に沙汰し給へと申上しかは流石か(さすが)最期はよかりけり男女三十余人同し烟(けむり)と立上りぬ勝家の気象常にしも違ふ事それ〳〵に感をなし卯月廿四日申の刻(さるのこく)にそ終りにけり……
今回は『賤ヶ岳合戦記』より、柴田勝家とお市の方たちの最期を紹介しました。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、勝家とお市の絆がどのように描かれるのでしょうか。山口馬木也と宮崎あおいの好演に期待しています!
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志村有弘『賤ヶ岳合戦記』勉成出版、1999年5月 高柳光壽『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


