教科書と違う!江戸時代の田沼意次「賄賂伝説」の嘘と、水野忠邦が「大奥」を敵に回した本当の理由 (2/3ページ)
老中は井伊家や堀田家など特定の家が担うのが慣例でしたが、彼はそうした慣例から外れていたためです。
そのため、もともと反対田沼派は、彼を引きずり下ろすチャンスを伺っていました。
印旛沼干拓の失敗は、そんな反田沼派にとって格好の攻撃材料だったのです。
実際には、田沼の政治には商業振興など先進的な面もありましたが、幕閣内での保守的な身分秩序の壁を越えることはできなかったのです。
水野忠邦と大奥一方、天保の改革で有名な水野忠邦もまた、身分と役職の不均衡に苦しんだ人物でした。
彼が家督を継いだ唐津藩は、すでに先代の頃から赤字財政状態。その後、浜松藩へ移封されましたが、この移転費用なども重なり財政状態は悪化。常に深刻な窮乏状態にありました。
さらに水野は天保の改革を進める中で、大奥への贈り物を一切行わず、大奥の大規模な整理まで企てます。
これに大奥勢力が猛反発し、水野は女性たちの強い怨嗟を買うことになりました。
江戸政治では大奥の支持を得ることが権力維持の必須条件であり、ここを敵に回した老中は例外なく失脚しています。
逆に柳沢吉保のように大奥政策に力を入れた者は出世しました。