南北朝の異端児!「ばさら大名」佐々木道誉とは──比叡山を敵に回した破天荒な武将、その意外な実像【後編】
歴史を見ていると、「この人、本当に武将なのだろうか」と思うような人物に出会うことがあります。その代表格のひとりが、南北朝時代の武将・佐々木道誉(ささき どうよ)です。
※前編の記事:
南北朝の異端児!「ばさら大名」佐々木道誉とは──派手なパフォーマンスで権力を制した知略と実像【前編】
武将であり文化人
道誉のもう一つの特徴は、文化への深い関わりでした。
連歌、田楽、猿楽、茶の湯、香など、当時のさまざまな芸能に通じていたとされています。連歌の世界では、南北朝期の准勅撰連歌集『菟玖波集』の成立や評価に関わったとみられ、自身の作品も多く収録されたと伝えられています。
また、猿楽の観阿弥・世阿弥と同時代に活動しており、猿楽の担い手たちを保護する立場にあったとも考えられています。
武将でありながら文化活動にも深く関わる。
この点は、当時の武士の中でもかなり特徴的な存在でした。
1340年、道誉は長男の秀綱とともに、比叡山延暦寺の妙法院を焼き討ちします。
これに対して山門側は強く抗議し、朝廷は道誉の配流を命じました。しかし幕府はこれを受け入れず、結果として彼は上総国へ移ることになります。
ところが、その道中の様子は通常の流罪とはかなり異なっていました。『太平記』によれば、若衆を数百人従えた豪華な行列で移動し、道中では遊女を伴ったとも記されています。
さらに、比叡山の神獣とされる猿の皮を腰当てにしたとも伝えられ、これは山門への露骨な挑発とも受け取られました。
もちろん、こうした描写は軍記物語の表現を含んでいます。しかし、それでも道誉の強烈な個性を象徴する逸話としてよく知られています。
室町幕府を支えた実力者
こうした逸話の多い人物ですが、道誉は室町幕府の政治にも深く関わった実務家でした。
足利尊氏の側近として、政所執事、引付頭人、評定衆などの役職を歴任します。さらに若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津など、複数の守護職を兼ねていました。
観応の擾乱では尊氏側に立ち、南朝との和睦を進言するなど、政局の調整役としても重要な役割を果たしています。尊氏の子・足利義詮の時代になると、幕府内部でも大きな影響力を持つ存在となりました。
派手な逸話の陰で、幕府政治を支える実務家としての顔も持っていたのです。
型にはまらない武将道誉は1373年に没しました。
墓所は滋賀県の勝楽寺と徳源院にあり、肖像画も現在まで伝わっています。
彼の所領には商業地域や交通の要地が多く含まれていたと指摘されており、運送業者や武装集団と関係を持っていた可能性もあるといわれています。そのため、経済感覚にも優れた人物だったと評価されることがあります。
豪華な宴を開く文化人。
政治の世界では冷静な策士。
そして幕府の実務を担う実力者。
佐々木道誉という人物は、南北朝という激動の時代が生み出した、まさに「型にはまらない武将」だったと言えるでしょう。
歴史を見ていくと、こうした個性の強い人物が、時代の転換点にしばしば現れます。
道誉もまた、その一人だったのかもしれません。
参考文献
佐々木哲『佐々木六角氏の系譜』 (2006 思文閣出版) 林屋辰三郎『佐々木道誉―南北朝の内乱と「ばさら」の美』(1995 平凡社) 森茂暁『佐々木導誉』 (1994 吉川弘文館) 渡辺守順『京極道誉―バサラ大名の生涯』(1994 新人物往来社)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
