「応仁の乱」はまだ甘かった…?本当の“戦国時代の始まり”とされる「明応の政変」という転換点
将軍交代の経緯
戦国時代の始まりとなった出来事といえば、一四六七年の応仁の乱を思い浮かべる人が多いでしょう。
この乱を一言でまとめるのは困難なのですが、あえて大まかに言えば室町幕府内の大物同士の争乱が全国規模で拡大し、幕府の力が大きく低下した事件です。
しかし、日本の歴史が戦国時代に突入した決定的なきっかけを、一四九三年の明応の政変だとする見方もあります。
明応の政変のポイントは戦乱の規模ではなく、将軍と実力者の関係が変わったことでした。
実力者というのは細川政元のことです。政元は応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の嫡男で、九代将軍・足利義尚の時代から管領を務めていました。
ところが一四八九年、義尚は二十五歳で病死します。そこで父の義政は、応仁の乱で対立した弟の義視と和解し、その翌年に義視の子である義材を十代将軍にしました。
この時、義材は二十五歳。しかし義政が一四九〇年に、義視は一四九一年にそれぞれ亡くなると、将軍家をめぐる状況は大きく動きます。
将軍である義材は積極的に行動し、前将軍の義尚が倒せなかった近江の賊軍を討ちました。さらに一四九三年二月には、河内の畠山政長を助けるため自ら出陣しています。
ここで京都をあずかったのが細川政元でした。義材が京都を離れている間に、政元は亡き義政の妻だった日野富子とひそかに協議を進めたのです。
富子は藤原北家につながる名門の日野家の出身でした。足利義満以後、日野家の娘が将軍の妻となることが慣例となっており、富子自身も義尚の母として政務や財政に深く関わっていました。
政元と富子が警戒したのは、義材が政治の主導権を強め、自分たちが政局から外されることです。義材が河内へ出陣する前から、すでに計画が進んでいた可能性もあります。
クーデターの実行政元が次の将軍候補として選んだのは、八代将軍・義政の弟である足利政知の次男でした。すでに出家して清晃と名乗り、天竜寺の僧となっていた人物です。
ちなみに義材の父である義視も義政の弟でした。つまり義政、義視、政知は、ともに六代将軍義教を父とする兄弟だったのです。
政知は堀越公方を務めていました。堀越は現在の静岡県伊豆の国市にあたり、足利幕府の関東における拠点でした。
そして一四九三年四月、細川政元は清晃を擁立して義材に反旗をひるがえします。クーデターが勃発したのです。これは成功し、義材は降伏することになりました。
清晃は還俗して義高と名乗り、一四九四年に十一代将軍となります。その後、一五〇二年には義澄へ改名したため、史料では十一代将軍を足利義澄と記す場合があります。
一方、将軍の座を失った義材は北陸へ逃れました。その後も各地を転々としながら復帰の機会をうかがったため、流れ公方と呼ばれることになります。
この一連の出来事が明応の政変です。単なる将軍交代ではなく、将軍の意思に従わない実力者が、将軍そのものを入れ替えた事件でした。
将軍の権威では、なぜ明応の政変を戦国時代の始まりと考えるのでしょうか。ここでは応仁の乱との違いが重要になります。
応仁の乱では、東軍も西軍も将軍を擁していました。戦いそのものは激しくても、将軍と幕府の権威を利用する仕組みはまだ残っていたのです。
『真如堂縁起絵巻』で描かれた応仁の乱(Wikipediaより)
つまり応仁の乱の段階では、また将軍の存在そのものが政治的な力を持っていました。ところが明応の政変では、その前提が大きく変わります。
細川政元の勢力は、自分たちの意向に従わない十代将軍義材を追放しました。そして新しい将軍として、政治的に扱いやすい義澄を立てています。
これは、将軍が実力者を動かすのではなく、実力者が将軍を選ぶ構図です。将軍の権威が絶対的なものではなくなったことを示す事件だったでしょう。
もちろん、一四九三年から戦国時代が始まったと断定することはできません。応仁の乱を起点とする説も根強く、戦国時代の開始時期にはいくつもの見方があります。
それでも、戦国時代を実力のある者が政治を動かす時代と考えるなら、この変化はかなり大きな意味を持ちます。細川政元が義材を追放し、義澄を将軍に据えた一四九三年は、少なくともその転換点の一つといえるでしょう。
将軍の権威が実力者によって直接動かされた明応の政変まで視野に入れると、室町幕府が戦国の政治へ変わっていく過程は、よりはっきり見えてきます。
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画像:Wikipedia
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