【豊臣兄弟!】討ち死にした与一郎には「8歳の妻」がいた!劇中では描かれなかった裏の史実と波乱の生涯
大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しんでいますか?
第29回放送「天下への道」で与一郎(大西利空)は初陣を果たすもあえなく討ち死に。小一郎(仲野太賀)と慶(吉岡里帆)夫婦はじめ羽柴家中を悲しみの淵に沈めてしまいました。
劇中ではあどけない少年として描かれた与一郎ですが、あの時点で既に妻がいたと言います。
今回は与一郎の妻となった女性「お岩」について紹介。恐らく登場することはないでしょうが、物語をより深く味わい、振り返るよすがとなれば幸いです。
※「豊臣兄弟!」関連記事:
『豊臣兄弟!』ついに秀吉と柴田勝家が全面衝突!勝家を絶望へ追いやった「美濃大返し」の狂気的な爆走劇 『豊臣兄弟!』覚醒した“ラスボス”お市、自ら選んだ道で秀吉に挑む!清洲会議の深層と「豊臣VS織田」の行方 8歳で夫を喪う
初陣を名乗り出る与一郎。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
お岩は天正3年(1575年)、名古屋高久(なごや たかひさ。那古野勝泰か)と養雲院(よううんいん。木下雅楽助姉妹)の間に生まれました。
彼らはかつて羽柴秀吉(池松壮亮)と寧々(浜辺美波)の縁談を後押ししたことがあり、その縁から娘と与一郎の縁談も進めたのでしょう。
お岩が与一郎と結婚した時期は不明ですが、与一郎が天正10年(1582年)以前に亡くなっていることから、お岩はまだ七五三くらいで結婚したものと考えられます。
政略結婚で始まったおままごとのような夫婦生活は長く続かず、与一郎が亡くなると、お岩はそのまま羽柴長秀(小一郎)の養女となりました。
ちなみに小一郎は天正10年(1582年)に丹羽長秀(池田鉄洋)の三男・仙丸(後の藤堂高吉)を養子にもらい、後継者に据えています。
再婚して5人の子を授かる
お岩が再婚したのは文禄3年(1594年)の春、当時彼女は20歳となっていました。
新しい夫は森忠政(もり ただまさ)、彼もまた妻を喪っており、再婚だったと言います。かつて伴侶を喪った悲しみを抱える同士、仲睦まじかったのでしょうか。
二人の間には二男三女が生まれました。
長女・お宮:慶長3年(1598年)生まれ 次女・お菊:慶長5年(1600年)生まれ 長男・虎松:慶長7年(1602年)生まれ 次男・忠広:慶長9年(1604年)生まれ 三女・お兼:慶長11年(1606年)生まれこうして見ると、お岩が24歳から32歳にかけて、2年おきに生んでいることがわかります。計画でも立てていたのかと思うくらい規則的ですね。
きらず粥(がゆ)の習慣
夫婦円満、多くの子供に恵まれて、お岩は幸せだったのでしょうか。どんな家庭でも悩みはあるように、彼女にもまた悩みがありました。
夫の忠政は何かにつけて人を斬るor斬らせることが多く、お岩はそんな夫の姿に心を痛めていたようです。
そこでお岩は年末大晦日になると、雪花菜(おから)で「きらず粥」を作り、家族みんなで食べました。
きらずとは雪花菜の別名で、雪花菜は大豆の搾り滓ですから、包丁を使わずに調理できます。
何も切らずに出来上がる「きらず粥」に、誰も斬らずに1年を終えられるよう願いを込めたのでした。
これを知った忠政は、少しは人斬りを控えようと思ったのでしょうか。
死後も領民たちに慕われる
津山城跡にある森忠政の銅像。気難しさが伝わる面構えである(イメージ)
子供たちに慈愛を注ぎ、夫にも慈悲を求めたお岩は、慶長12年(1607年)5月3日に33歳という若さで世を去ってしまいました。
法名は智勝院殿月桂宗清大禅定尼(ちしょういんでん げっけいそうしん だいぜんじょうに)。龍雲寺(現在は本源寺。岡山県津山市)に葬られ、その初盆には盛大な万灯会が催されたそうです。よほど人々から敬愛されていたのでしょうね。
その習慣は、忠政の50回忌を迎える天和3年(1683年)まで、76年間にわたって毎年続けられたのでした。
終わりに今回は羽柴与一郎の妻となったお岩(智勝院)について、その生涯をたどってきました。
物語の都合上、割愛されてしまいましたが、魅力的な人物だったようです。どこかの作品で登場しないか、楽しみにしています。
※「豊臣兄弟!」関連記事:
『豊臣兄弟!』ついに秀吉と柴田勝家が全面衝突!勝家を絶望へ追いやった「美濃大返し」の狂気的な爆走劇 『豊臣兄弟!』覚醒した“ラスボス”お市、自ら選んだ道で秀吉に挑む!清洲会議の深層と「豊臣VS織田」の行方※参考文献:
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書、2025年5月 柴裕之『シリーズ・織豊大名の研究 14 豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月※トップ画像:NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

