『豊臣兄弟!』“いい人”の裏にあった汚れ役の真実…信長・秀吉の間を巧みに生きた丹羽長秀の生涯【前編】 (2/2ページ)

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池田鉄洋演じる丹羽長秀(NHK「豊臣兄弟!」公式」X」より)

信長から「友であり兄弟」と称された丹羽長秀

丹羽長秀(池田鉄洋)は1535年(天文4年)、丹羽長政の次男として、尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれました。丹羽氏はもともと尾張国の守護・斯波氏に仕えていたとされ、父・長政の代に織田家に従属したと考えられています。

愛知県名古屋市西区の丹羽長秀邸址(Wikipedia)

長秀が織田信長(小栗旬)に仕えたのは、父の死後とされ、16歳で小姓として出仕したと伝えられています。信長は長秀の1歳年上なので、ほぼ同年代でした。

この当時、信長の織田弾正忠家は、新たな局面を迎えていました。

それは、長らく敵対していた美濃の斎藤道三(麿赤兒)と、信長の父で当主の信秀が和睦し、道三の娘・帰蝶が正室として信長に嫁いだことです。

しかし、尾張国内では織田諸家が争うという分裂状態が続いていました。

こうした状況のなか、長秀は信長から「友とも兄弟とも思う」と言われるほどの信頼を獲得していくのです。

戦場でも政務でも活躍した文武両道の人

皆さんは丹羽長秀に、どのようなイメージをお持ちでしょうか。

一般的には、めったなことでは物事に動じない「冷静沈着」な人。そして、合戦・政治・築城まで何でもこなす「ユーティリティープレーヤー」。そのようなイメージではないでしょうか。

そして、この二つをあわせ持った長秀像こそ、『豊臣兄弟!』の「血気盛んな武将が多い家臣団の中で文武両道を実践」というプロフィールに一致するのです。

丹羽長秀像/東京大学史料編纂所蔵(Wikipedia)

「武」という側面では、長秀は戦場において数々の戦功を挙げています。まずは信長麾下の将として参陣した代表的な戦いと、それに関連する事柄を以下に記しましょう。

●1552年(天文21年):萱津の戦い
●1555年(天文24年):岩倉城攻め
●1560年(永禄3年):桶狭間の戦い
※1563年(永禄6年):信長の養女・桂峯院を娶る
●1565年(永禄8年):美濃・猿啄城攻め
●1567年(永禄10年):美濃・稲葉山城攻め
●1568年(永禄11年):近江・箕作城攻め
●1569年(永禄12年):伊勢・大河内城攻め
●1570年(永禄13年):越前・金ケ崎城攻め、近江・姉川の戦い、近江・佐和山城攻め
※同年、佐和山城主となる
●1573年(天正元年):越前・一乗谷攻め
※同年、若狭一国の領有し国持ち大名となる
●1574年(天正2年):越前・一向宗征伐
●1575年(天正3年):長篠の戦い
※信長の奏請によって朝廷から「惟住(これずみ)」を賜姓
●1576年(天正4年):安土城築城の奉行を務める
●1577年(天正5年):紀州攻め、信貴山城の戦い
●1581年(天正9年):天正伊賀の乱
●1582年(天正10年):甲州征伐、四国討伐

このように、長秀は信長の命を受け、ほとんど休むことなく戦い続けているのです。そして、多くの戦いで織田軍の勝利に貢献しました。

こうして長秀は、織田家において筆頭家老・柴田勝家(山口馬木也)に次ぐ「二番家老」として、織田家の双璧とも称される存在になっていったのです。

秀吉を選んだ長秀。そして引き受けた「汚れ役」

1582年(天正10年)、信長が明智光秀(要潤)に討たれる本能寺の変が勃発します。

このとき長秀は、織田信孝(結木滉星)を総大将とする四国討伐軍の副将として、大坂方面にいました。本能寺の変が起こったとき、長秀は光秀討伐に動きやすい位置にいたことになります。

しかし、そもそも急ごしらえであった四国討伐軍は、変の報せがもたらされたことで動揺し、兵の多くが逃亡してしまいました。このため長秀は大規模な軍事行動に移ることができず、光秀討伐の主導権は中国大返しを成功させた羽柴秀吉(池松壮亮)に握られることになります。

そして織田家の行く末を決める清須会議には、織田家宿老の一人として参加したものの、会議後にはその立場を秀吉側に置きます。

このとき、三男・仙丸(せんまる)を羽柴秀長(仲野太賀)へ養子に出し、秀吉との縁戚関係も結んでいました。ちなみに仙丸は秀長の没後、藤堂高虎(佳久創)の養子となり、藤堂高吉として名張藤堂家の祖となっています。

そういえばドラマの中でも、織田家の跡取り三法師の後見役にだれを推すかについて聞き出そうと秀長が長秀の肩をもむシーンがありました。秀長は「足軽の頃から丹羽殿には声をかけていただいた、感謝しております」と語っている通り、従来から豊臣兄弟と長秀の間には意思の疎通が図られていたのでしょう。

長秀は、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉方として参陣。戦後にはその褒賞として、若狭に加え越前の一部と加賀二郡を与えられ、約120万石の大大名となりました。

長秀は、その2年後の1585年(天正13年)に死去します。死因については、後世の伝承に、寄生虫による病に苦しみ、病の苦痛を除くため自ら腹を切ったという話があります。また、胃癌だったとする説もあります。いずれにしても、長秀は秀吉が天下人となる前に、51年の生涯を終えたのでした。

結局、丹羽長秀は織田家中の双璧と称された柴田勝家のように、野心満々の秀吉と争う道を選びませんでした。いや、むしろ時勢を的確に判断し、秀吉に協力することによって、丹羽家を次代の長重へとつなげることに成功したのです。

このあたりに、長秀の「冷静沈着」な性格が、最も明確に表れているのではないでしょうか。

しかし、長秀の人生を語るうえで、もう一つ絶対に触れておきたいことがあります。それは、おそらく織田家宿老の中でも、とりわけ「汚れ役」を引き受けていたことです。

代表的なものだけでも、1573年(天正元年)には、朝倉義景を滅亡させた戦後処理として、義景の子・愛王丸、その母・小少将、そして義景の母・高徳院の処刑に関わったとされます。

また1581年(天正9年)には、越中国木舟城主の石黒成綱を近江で謀殺。さらに1582年(天正10年)の本能寺の変後には、大坂で信長の甥・津田信澄を攻め、これを滅ぼしました。

長秀の後を継いだ丹羽長重/大隣寺所蔵(Wikipedia)

戦国の世では、どんなに繁栄を極めようとも、一瞬先は闇です。そのことを長秀は、誰よりもわきまえていたのかもしれません。

そして、その教訓は丹羽家を継いだ長重にも引き継がれていきます。長重の生涯は、父・長秀以上に波乱万丈なものとなります。

その数奇な運命については、[後編]でお話ししましょう。

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