『豊臣兄弟!』逃げずに26歳で散った織田信忠(小関裕太)…ドラマでは描かれなかった “幻の天下人” の最期

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『豊臣兄弟!』逃げずに26歳で散った織田信忠(小関裕太)…ドラマでは描かれなかった “幻の天下人” の最期

「豊臣兄弟!」の中でも、圧倒的なオーラを放っていた人物といえば、織田信長(小栗旬)。

傍若無人な暴君ぶりもさることながら、時折見せる優しさや苦悩が“人間味があっていい”と評判でした。

圧倒的な迫力の“本能寺の変”は新しくレジェンドになる……と話題をさらいました。

けれども、今回ドラマでは、本能寺の変の日、逃げずに戦い26歳の若さで命を落とした信長の嫡男・信忠(小関裕太)の最期は描かれませんでした。

もし生きていれば、あの秀吉(池松壮亮)がまさに言葉通り担ぎ上げた三法師ではなく、この信忠が後継者でした。

存在感があり過ぎる父親の陰に隠れがちで、その活躍ぶりや人となりが見えづらい信忠。

“幻の天下人”となり舞台を去ってしまった信忠を惜しみ、ドラマでは描かれなかった悲劇的な最期や、父・信長とのエピソードなど、信忠の人となりがわかる「豊臣兄弟!」の過去の場面や、後世の史料に残されたエピソードをご紹介します。

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織田の家督を継いでわずか7年、「本能寺の変」で最期を迎えた織田信忠(小関裕太)(NHK「豊臣兄弟」公式「X」より)

「奇妙」には「美しくて優れた息子」の意味も

織田信長の嫡男・信忠は、「豊臣兄弟!」の第19回『過去からの死角』の回から登場しました。

ドラマ冒頭でいきなり、信長が信忠に家督を譲ると宣言。思わず「えっ…」と声を漏らしてしまった息子に「なんだ不服か?」と尋ねる信長。無表情で怖い。

信長は、信忠に岐阜城当主の座、尾張・美濃を譲り、天下統一を見据えた“安土城”造りを始めたのでした。

信忠の両隣に座っていた三男・信孝(結木滉星)と従兄弟の信澄(緒方淳)に、祝いの言葉をかけられて、緊張の面持ちながらも、嫡男である誇らしさが滲み出るような表情を浮かべたのが印象的でした。

史実では、このとき天正3年(1575)11月28日。信忠は引治3年(1557)生まれなので、18歳でした。

信忠は幼少期に「奇妙な顔」をしていたために信長が「奇妙丸」と名付けたという逸話が有名です。

けれども、文字の意味を探ると『奇』という文字には優れている『妙」』という文字にはきわめて美しい・善美の極みなどの意味もあります。

現代人がとらえる「奇妙」の意味ではなく、もしかしたら誕生した嫡男を見て、自分に面差しがそっくりと感じて「生まれたときから美しくて優れた息子」という、ちょっと親バカな意味で付けたのかも……と想像してしまいました。

というのも、残された肖像画を見ると、面長の輪郭に切長の目が父子だけあってよく似ているのです。

ただ、信忠(左)のほうがちょっとふっくらとして目元も柔和な雰囲気。

これを見る限り、「奇妙な顔」ではなく「優れた息子」説のほうが当たっているような気がします。信忠は、幼い頃から家督継承者として特別扱いをしながら大切に育てられたそうです。

(左)大雲院/織田信忠像(右)織田信長像 (蜷川式胤模 文化遺産オンライン)

つい「父上ならそう申すはずじゃ」と

「豊臣兄弟!」の中では総大将として発言しても、その後に『…父上なら、そう申すはずじゃ』と付け加えてしまう信忠。

SNSでも話題になっていました。信忠の背負っている重荷が切なかったですね。

そして、第24話『軍師官兵衛!』の回。

籠城を続けていた荒木村重(トータス松本)がまさかの“妻も家臣も置いての逃亡”で、摂津・有岡城は落城しました。

そして残るは東播磨・三木城となり、総大将の信忠は総攻めを命じ「三木城で同じしくじりは許さん…父上ならそう申すはずじゃ。」という場面がありました。

そこに、有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛(倉悠貴)が足を引きずりながら登場。

お恐れながらと、別所がいかに播磨の国衆から好かれているかを説明し、血を流さず三木城の者たちを助ければ、感謝して織田家に忠誠を尽くすはずだと熱弁しました。

「しかし…父上が」という信忠に、『信忠様のお考えをお聞かせくださりませ。』と鬼気迫る勢いで詰め寄る官兵衛。

この言葉は信忠の胸に刺さったのではないでしょうか。

織田家当主として、信長の息子としてのプレッシャーから、「三木城の者は一人残らず打ち取れ!」とあえて信長をなぞって信忠様は苛烈なことを命令した……そんなふうに、官兵衛は見抜いていたように思えます。

淡々と表情を変えずに官兵衛の言葉を受け止めていた信忠ですが、一瞬ふと視線を下に落としてから「好きにいたせ」と言いました。父への依存やプレッシャーが解けた瞬間。

奇しくも、この日は6月21日(日)は「父の日」でした。

この回は、官兵衛は息子・松寿丸(森優理斗)と1年ぶりに再会。そして、信忠は「父上なら」と頼ってしまう自分の中の父から離脱。

それぞれの「父と息子」のあり方がテーマに流れていたのが記憶に残っています。

『信忠様のお考えをお聞かせくださりませ。』と迫る黒田官兵衛。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

謀反人の子で・いとこの信澄にみせた気遣い

第25回『変事の予兆』で、安土城が完成し信長は家臣たちを集めました。

安土城築城にて総普請奉行を任された丹羽長秀(池田鉄洋)の功績を讃えるシーンで、突然、信忠が信長に向かい「父上、信澄も褒めてやってください」といいました。

信孝が、微妙に不満そうな冷たい目付きだったのと、お市(宮﨑あおい)が厳しい付きだったのが印象的でした。

二人とも、信長に謀反を起こした織田信勝の息子の信澄をよくは思っていなかった感じがしました。

なんとなくアウェイ感の漂う信澄を気遣う、信忠。

苛烈な命令も厭わない当主っぽく振る舞っていたものの、本来はこういう気遣いと思いやりを持つ人物だった……と描いていたような気がします。

信澄に気遣いを見せる思いやりのある信忠。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

逃げずに二条新御所で明智軍と戦う信忠

天正10年6月2日、本能寺の変が起こったとき、織田信忠は京都の妙覚寺に滞在していました。

信忠は、明智光秀軍が本能寺に滞在している父を襲撃したことを聞き、すぐさま駆けつけようとします。

信忠の最期は、『信長後記』に以下のように描かれています。

三位中将信忠 御諚には軍之巷と可成候間  親王様 若宮様 禁中へ御成可然之由被仰心ならすも被成御暇請イトマゴイ 内裏へ入奉り爰に而僉議区也引取て被退候へと申上る人も有 三位中将信忠 御諚にはか様之謀叛によものかし候はし雑兵之手にかゝり候ては後難無念也爰に而腹を可切と被仰御神妙之御働哀也……(中略)……

宗徒之家子郎等甍並討死算を乱したる有様 御覧し不便に被思食御殿も間近く焼来此時御腹めされ 鎌田新介無冥加御頸を打申 御諚之如くに御死骸を隠置無常之煙となし申哀成風情目も当られす

現代語にして、要約すると、

三位中将信忠は本能寺の変の知らせを聞き、戦うため妙覚寺を出ようとするも、村井春長軒父子に「本能寺はすでに落ちた。敵はこちらにもくるので二条の新御所に移るよう」と進言されて移動しました。

御所では、親王様、若宮様を禁中へ移動させて別れを告げます。

そして、「このような謀反を起こす者どもに逃げたと思われるのは、いかにも不本意。雑兵の手にかかってしまっては、後々まで無念。ここで腹を切る」決断したのでした。

「自分が腹を切った後は、後ろの縁側の板を外し自分の遺骸を隠してほしい」と言い、介錯の役目を鎌田新介に命じます。

信忠は、家臣や郎党たちが討死した様子を見て気の毒に思いつつ、御殿の火も間近まで燃え迫ってきたので切腹。鎌田新介は、遺言どおりに介錯して遺体を隠しました。

「最期のありさまは、まことに悲しく、目を向けることさえできないほど痛ましいものでした。」と記してあります。

左:織田信長の本能寺の件。右:逃げずに最後まで果敢に戦った織田信忠。 (NHK「豊臣兄弟!」公式サイト、公式「X」より)

信長・信忠への忠義を尽くした家臣たち

また、『信長公記』には、信長・信忠への忠義を尽くした家臣の逸話もあります。

たとえば、光秀の片腕・斎藤利三と親しかった松野平助は、明智側につくことを勧められるも、「信長に身に余るほどの知行を得たのに、報いる働きができなかった」とし、自害。

代々、織田家に支えていた土方次郎兵衛も、本能寺の変には間に合わなかったために、武具や衣装などをすべて下人たちに形見として与えてから追腹しました。

山岡美作、山岡対馬兄弟は、明智に味方せよと迫られるものの「信長に受けた御恩は浅くない。でできない」と、勢田の橋を焼き落とし明智軍の進路を妨害。自分たちの居城にも火をかけて、山中へ退きました。

……などと記されています。

また、最後まで二条御所で信忠と戦って討死した家臣には、猪子兵助(高就)菅屋長頼福富秀勝など、信忠に忠義を尽くし戦った人々もいました。

信忠の介錯を務めた鎌田新介は、殉死説もありますが、井戸に身を隠して逃げ、豊臣政権になってからは福島正則に仕えたという説もあります。

父子仲が想像できる「鷹」のエピソード

織田信忠は、家督を継承してからは織田軍の総大将としても優れた実績を残し、本能寺の変では果敢に戦い、26歳の若さでこの世を去りました。

実際の信忠の人柄などは想像するしかありませんが、信長と信忠の関係が想像できるような逸話を。

去程 三位中将信忠 岐阜に而庭子の御鷹四足ヨモト御飼立被成候近来之御名従不可過之御鷹師タカシヤウ山曰 広葉両人安土へ 寅七月廿三日 持参候処右之内一足破召上残り者中将信忠へ被成御帰両人御鷹師辛労仕たる之由 上意にて銀子五枚宛に御服相副被下色々忝儀共にて罷帰候也 寅八月五日 奥州津軽之 南部宮内少輔 御鷹五足イツモト進上……
(信長公記「巻十一(十)小相撲之事」)

現代語に訳して要約すると……

三位中将信忠は、岐阜で庭にいる鷹の子を四羽、自ら育てていました。

そして、有名な鷹匠である山曰と広葉の二人にその鷹を安土の父のもとへと持参させたのです。

すると信長は、そのうち一羽だけを引き取り、残りの三羽は信忠へ返すように告げます。

さらに、二人の鷹匠に、銀子五枚ずつと衣服を添えてねぎらい、彼らは感激して帰っていったのでした。

……というような内容です。

もしかしたら、「信忠がせっかく育てたのだから1羽だけもらうけれど、あとは自分のものにしなさい」ということだったのでしょうか。

父息子の仲の良さが感じられるエピソードだなと、想像してしまいました。

鷹 湖龍斎 Public domain

最後に…

「豊臣兄弟!」の中では、最期までが描かれなかった織田信忠。信長のオーラが強過ぎて、あまり目立つ感じではないものの。

もし、信忠が生き延びていたら、あの清洲会議も秀吉の三法師の担ぎ上げパフォーマンスも、お市の再婚も、豊臣の天下もなかったのかも……。

そうと思うと、歴史を塗り替えるはずの織田家のキーパーソンだったのだな非常に感慨深い思いでした。

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参考:

『織田信忠―天下人の嫡男』和田裕弘著
『信長公記』太田牛一著
織田信忠 「本能寺の変」に散った信長の嫡男 近衛 龍春著

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