【豊臣兄弟!】信長の葬儀「秀吉vsお市」の真相!秀吉より先に行われた“本当の法要”の謎

Japaaan

【豊臣兄弟!】信長の葬儀「秀吉vsお市」の真相!秀吉より先に行われた“本当の法要”の謎

天正10(1582)年6月2日未明。『本能寺の変』で命を落とした織田信長

「御生害」(自害すること)したはずの信長の遺体が「どうなったのか?」には諸説あります。

また、信長の葬儀は、豊臣秀吉が取り仕切った絢爛豪華なド派手なパフォーマンス葬儀が知られています。

けれども、この信長の死後約4ヶ月も経ってから行われた盛大な葬儀には、息子の信雄・信孝の兄弟仲は悪化していて参加しなかったそうです。

そして、秀吉が葬儀を行う前に、先んじてお市や信長の乳母で池田恒興の母・養徳院は、供養を行なっていたのです。

今回は、信長の遺体の謎や、秀吉VSお市の葬儀についてご紹介しましょう。

※関連記事:

『豊臣兄弟!』ついに賤ヶ岳の戦い!“一番槍”で活躍した猛者・桜井家一の知られざる死闘

三法師丸を抱いて現れた秀吉にたじろく諸将。「瓢軍談五十四場 大徳寺の焼香諸士の順列をたゞす」 国立国会図書館デジタルコレクション

見つからなかった信長の遺体

織田信長の命日は、天正10年(1582)6月2日、享年49歳でした。

本能寺の変での戦いが終わり、明智光秀は信長の遺体を懸命に探すも、遺体は発見されませんでした。

「焼死体が多過ぎて、どれが信長がわからなかった」と伝わります。

「豊臣兄弟!」のドラマの中では、火に包まれた本能寺の中で、織田信長(小栗旬)が、かけよった森乱(市川團子)の頬をペチペチして「わしの首、決して敵の手に渡すでないぞ」と命じ、「おまかせ……くださいませ」と答える場面が印象的でした。

戦国時代の戦いでは、敵方の大将の遺体を確保することは非常に大切なこと。首を獲ったことで“確実に討ち取ったことを証明”して、周囲に知らしめるためにも必要でした。

そんな経験を自ら体験してきた信長。光秀に自分の首を奪われ、この謀反を正当化させることだけは絶対に許せなかったでしょう。

ドラマの中でも、それを承知した森乱は、信長との会話の後、素早く走り去っていきました。主が切腹した後の遺体を燃やすことに尽力したのでしょう。
(畳で囲って、完全によく燃えるようにしたという説も)

その後も明智光秀(要潤)や斎藤利三(内藤剛志)が、焼け跡で信長の遺体を懸命に探す場面が描かれましたが、遺体は見つかりませんでしたね。

太田牛一自筆の『信長公記』には、“自害をした”とは記しても、遺体に関しての記述は見当たらないようです。

ただし、長男の織田信忠の最期に関しては、信忠自身が家臣の鎌田新介「自分の遺体は縁側の板を引き剥がして、そこに隠すように」と命じ、その後は建物ごと崩れ落ちたという、詳しい記述があるのが興味深いところです。

さらに、山科言経の『言経卿記』も吉田兼見の『兼見卿記』も信長の遺体に関しては触れていないようです。

また、ルイス・フロイス『日本史』では、全て灰となり何も残らなかったとか。

『林鐘談』には、瓜の紋の付いた焼けた小袖を信長の遺体にしたとあるなど、史料によって記述はさまざまです。

信長と森乱、最期の別れとなった炎に包まれた本能寺。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

秀吉プロデュースの豪華絢爛な信長の葬儀

実際、6月2日に信長が亡くなって以降、なかなか葬儀は行われませんでした。

信長の葬儀として一般的にイメージが強いのは、10月15日に秀吉がプロデュースして京都の大徳寺で行われた葬儀でしょう。(大徳寺で行われた追善供養自体は11日〜17日間)

たとえば、秀吉の右筆、大村由己が記した『惟任退治記』には、秀吉が取り仕切った信長の葬儀について非常に興味深い、以下のような描写があります。

就㆑中十五日御葬礼之作法、所㆑驚㆑目也、先棺槨以㆓金紗金襴㆒裹㆑之、軒之瓔珞、欄干之擬宝珠、皆鏤㆓金銀㆒、八角之柱ニ画㆓丹青㆒、八軒之間致㆓彩飾㆒、御骨、以㆓沈香㆒彫㆓刻仏像㆒……(中略)……供具盛物、龍足造花、作㆓七宝荘厳㆒、寔九品浄土、五百阿羅漢三千仏弟子、如㆑在㆓目前㆒矣、仏事役者……

長めに詳細に書いてあります。現代語に訳して要約すると、

〜十五日の御葬礼の作法は、目を驚かせるほどであった……と始まり、棺は金紗や金襴で包み、軒の瓔珞(ようらく)※や、欄干の擬宝珠はすべて金銀で彫り飾られていた。

八角の柱には色鮮やかな絵が描かれ、周囲には彩り豊かな装飾が施されていた。
さらに、お骨の代わりとして沈香で彫り刻んだ仏像を棺の中に収めた。

※瓔珞:菩薩や密教の仏の装身具、または仏堂・仏壇の荘厳具

とあります。この部分、文章で想像するだけでも、かなりド派手で「信長が見たら喜んだかもしれない」と感じますね。

さらに……

〜羽柴小一郎秀長が警固の大将となり、大徳寺から千五百軒(約2.7km)の間、警固の侍が三万人ほどいて、道の左右を守護。弓・箙(えびら)・槍・鉄砲を立て連ねて並んでいた。

葬礼の場には、秀吉分国の徒党は言うに及ばず、諸侍がことごとく馳せ集まり、その外見物の人々は貴賤を問わず雲霞のごとく多かった。〜

と続きます。この壮大なスケールのイベントを一目みようと見物客もかなり集まったようです。

行列の者は三千余人で、みな烏帽子に藤衣(喪服)を着ていた。五山をはじめ洛中洛外の禅宗・律宗、八宗九宗の僧侶は、幾千万いるかわからないほどで、それぞれの宗派が威儀を整え、手を合わせて問訊し、集まって行道した。〜

3000人もの人々が集まって喪服に身を包み行進している様子は、まるで映画のワンシーンのようですね。

紫野大徳寺焼香之図(月岡芳年)public domain 東京図書館デジタルアーカイブ

秀吉より先にお市や乳母が百箇日法要を行なった

民衆の度肝を抜く豪華絢爛な織田信長の葬儀は、「亡き主君の仇を討ち葬儀のプロデュースもした」ということで、秀吉の大きな宣伝になったことでしょう。

ただし、この前に、秀吉よりも早くお市などが法要を行なったそうです。

妙心寺の住持・月航和尚が記した『月航和尚語録』には、お市や信長の乳母だった女性が、秀吉よりも早く百箇日法要や卒哭忌を行なったという記録が。

例えば、秀吉の葬儀よりも早い9月頃にお市が百箇日法要を、また別の日には池田恒興の母である養徳院が供養したと思われる記述が残っているそうです。

お市が、なぜ妙心寺を選んだのかに関しては、夫・柴田勝家が勧めたとされています。

妙心寺は臨済宗の大本山で、京都の有力寺院。柴田勝家や織田家との何らかの縁があったのかもしれませんが、一次史料で具体的な理由に触れたものはないようです。

「花園妙心寺」緑山

京都の阿弥陀寺に残る逸話では

京都市上京区にある阿弥陀寺では、玉誉清玉が本能寺の変で信長が自害したあとに「寺に赴いて信長の遺灰を持ち帰って墓を築いた」という説も伝わります。(『信長公阿弥陀寺由緒之記録』

さらに、二条新御所で亡くなった織田信忠の遺骨も回収して、信長の墓の横に墓を作ったそう。

阿弥陀寺の墓所には織田信長、織田信忠、森乱三兄弟ほか討死した犠牲者の墓もあります。

京都市上京区 ・阿弥陀寺「織田信長廟」wiki

信長の葬儀で自分をアピールした秀吉

大徳寺での煌びやかで他を圧するような壮大なスケールの秀吉プロデュース。

その様子を見たわけではありませんが、かなり華やかなイベントだったことでしょう。

また、もちろん、秀吉の政治的パフォーマンスでもあったものの、もともと信長も安土城のライトアップ京都御馬揃えなど、人々を驚かせるような派手なイベントを行うのが大好きでしたね。「豊臣兄弟!」の中でも信長の派手好みは描かれていました。

そんな信長の遺志を引き継いだド派手な葬儀。

供養をしつつもちゃっかり「秀吉ここにあり」のアピールをした秀吉ですが、あの小栗信長なら「やってくれるな、猿め」と苦笑しているかもと想像してしまいました。

けれども、それよりも早く行なったお市や乳母の法要のほうが突然の死を悲しみ痛み心から見送ったような気がします。

※関連記事:

『豊臣兄弟!』ついに賤ヶ岳の戦い!“一番槍”で活躍した猛者・桜井家一の知られざる死闘

『豊臣兄弟!』逃げずに26歳で散った織田信忠(小関裕太)…ドラマでは描かれなかった “幻の天下人” の最期

参考:

日本史を暴く-戦国の怪物から幕末の闇まで磯田 道史 (著)
『惟任退治記』
『月航和尚語録』
『秀吉の虚像と実像』堀新ら著

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「【豊臣兄弟!】信長の葬儀「秀吉vsお市」の真相!秀吉より先に行われた“本当の法要”の謎」のページです。デイリーニュースオンラインは、お市豊臣兄弟!戦国時代豊臣秀吉織田信長カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る