ただの宗教伝来じゃない!「仏教」が渡ってきた本当の目的は“兵力”の要請だった?
「仏教伝来」の本質
古代日本では、五三八年に百済の聖王(別名・聖明王)から仏像や経典が伝わったとされます。
これは欽明天皇の時代に起きた出来事で、日本史では仏教伝来として知られています。ほっとけゴミ屋さんという語呂合わせで覚えている人も多いでしょう。
ただし、こうした仏教伝来を仏像と経典がやってきただけの出来事と考えると、本質を見失います。
仏教を広めるには、経典を運ぶだけでは足りません。当時は文字を読めない人もいたため、その教えを「見える化」する必要がありました。
そこで必要になったのが、寺院を建てる土木や建築の技術、仏像や法具を作る工芸技術、法衣を仕立てる技術などです。
さらに、仏教を教える僧侶を育てなければならず、そのためには専門の師を百済から招き寄せる必要もありました。
つまり、仏教伝来とは最新の文化や知識、技術のまとまりが百済から倭へ移った出来事とも考えられます。
しかも、これは五三八年に突然始まったものではありません。
百済は五一三年から、五経博士と呼ばれる官僚を順次、倭へ派遣していました。五経博士は儒教の五経にくわしく、漢字を自由に読み書きできる知識人です。
さらに百済は、暦博士、医博士、易博士なども倭へ送っています。
この事実を見ると、百済と倭の間では、仏教伝来より前から知識や技術のやり取りが続いていたことが分かります。仏教は、その流れの中で倭へ入ってきたと見ることもできます。
百済と倭の関係ここで一つの疑問が出てきます。百済にとっても貴重だった最新の文化や知識、技術を、なぜ倭へ伝えたのでしょうか。
その理由を考える手がかりになるのが、五三八年ごろの朝鮮半島の情勢です。
当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立し、覇権を争っていました。五三八年には百済は新羅から攻撃を受け、その影響で都を移しています。
つまり、百済にとって軍事的に厳しい時期だったのです。
この時代は武器の殺傷力が現在ほど高くありませんでした。そのため、百済も軍事的な援助、とりわけ兵力を必要としていました。
ここで重要になるのが、朝鮮半島から少し離れた倭の存在です。文化の面ではヤマト政権は朝鮮半島より後進的だったとされますが、軍事力は強かったと考えられています。そして、百済はその兵力を欲しがっていたのです。
もちろん、仏教を伝えた目的が援軍の要請だけだったと断定することはできません。
しかし、仏教伝来と百済の軍事的な苦境が時期的に重なっていることは重要です。
政治的・軍事的意味合い仏教を単なる宗教として見るだけでは、百済と倭の関係、仏教の文化的意味を見落とします。
当時、仏教には経典だけでなく、寺院建築、仏像制作、工芸、法衣、僧侶の育成など、多くの知識と技術が結びついていました。
そのため、百済が倭へ仏教を伝えることは、自国が持つ高度な技術体系を倭へ提供することでもありました。
先述の通り、五一三年以降に五経博士、暦博士、医博士、易博士などを派遣していたことも、この関係を考えるヒントになると言えるでしょう。
仏教は宗教であると同時に、百済にとって重要な外交手段でもありえました。国家の存続が危ぶまれる状況で、百済が倭の軍事力を必要としていた可能性は大いにあります。
古代の国際関係では、文化と政治をきれいに分けることはできません。仏教伝来という出来事には、仏教、知識、技術、交易という意味合いがあり、そしてその背景には高句麗・百済・新羅の対立がありました。
なぜ仏教が日本へ伝わり、受け入れられたのかという問いを考えるためには、古代東アジアの政治情勢と軍事情勢を見る視点も必要なのです。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC
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