織田信長=冷酷 はポルトガル宣教師の偏見?“冷酷な暴君”のイメージを覆す驚きの「追放処分」と合理的人事
厳しい主君
織田信長といえば、部下にも容赦しない厳しい主君というイメージが強いでしょう。
実際、信長が家臣の失敗や怠慢を強く責めた例はありました。決して甘い上司ではなかったのです。
代表的なのが、本願寺との戦いで重要な戦機への対応が遅れ、被害を広げた重臣の佐久間信盛でした。
とはいえ、信盛は厳しく処分されたものの処刑されたわけではありません。高野山へ追放され、そこで余生を送っています。
このあたり、一般的なイメージと実際の人物像との間にはズレがありそうです。
信長が、家臣を処罰するために殺害したという事例はそれほど多くありません。家臣への処分は、殺害よりも追放が多かったのです。
これは信長が優しい主君だったという話ではありません。失敗した家臣を厳しく処分する一方で、使える人材までは簡単に見捨てなかったと見ることができます。
まず、そもそもの話として、信長のことを絶対君主で部下に強圧的な人物として描いたのは、ポルトガル出身のイエズス会宣教師ルイス・フロイスでした。
信長と親交のあったフロイスは『日本史』に信長の姿を書き残し、その人物像は後世にも大きな影響を与えました。そこで描かれた人物像にやや偏りがあったのでしょう。
人材を重視信長の家臣登用の傾向として目立つのは、出自だけで人物を判断しなかった点です。
その代表が、誰あろう百姓の息子から登用された羽柴秀吉でした。身分の低い出身でも、信長は能力さえあれば重要なポジションを与えたのです。
明智光秀もそうです。彼はもともと各地を転々としていましたが、足利義昭の後に信長の家臣となって大名へ出世しました。
柴田勝家もそうです。彼はかつて信長と後継者争いをした弟・信勝を支持していましたが、重用されたのはご存じの通りです。信長は過去の対立よりも、武将としての力量を評価したのです。
さらに信長は、自らすべての戦場へ出向くのではなく、稲葉山城や安土城から各地を指揮する体制を作ろうとしていたと考えられています。
関東には滝川一益、北陸には柴田勝家と前田利家、中国には羽柴秀吉、四国には三男の信孝と丹羽長秀を置く構想が進んでいました。
全国規模の支配を目指すなら、信長一人の能力だけでは足りません。広い地域を任せられる人材を見つけ、その力を使い続ける必要があったのです。
つまり信長の家臣登用には、個人的な好き嫌いだけでは説明しにくい合理性がありました。ひとことで言えば適材適所という考え方だったのでしょう。
伝説と史実信長の性格を表す話として有名なのが、信長・秀吉・家康のホトトギスの三句です。
信長は鳴かないなら殺し、秀吉は鳴かせ、家康は鳴くまで待つという対比ですが、これは本当は三人がそれぞれ詠んだ句ではなく、江戸時代後期の『甲子夜話(こうしやわ)』に載った創作です。
あの三つのホトトギスの句は、内容とその対比が秀逸すぎて、信長の誤ったイメージを広める結果になったと言えるでしょう。
また、明治時代にアメリカへ渡った教育学者の新渡戸稲造が『武士道』で強調した主君への忠節も、後世に作られた武士像を考えるうえで重要です。
こうした話が重なることで、信長には怒りやすく、部下をすぐ殺す人物という印象が定着した可能性があります。しかし、史実として確認できる家臣への処分だけを見ると、単純な人物像にはなりません。
信長の処分が厳しかったことは確かです。佐久間信盛のように高野山へ追放された家臣もおり、失敗すれば大きな代償を払うことになりました。
一方で、秀吉、光秀、勝家のような人物を登用し、それぞれの能力を大きく伸ばしたことも事実です。厳しさと人材活用は両立していたと考えられるでしょう。
信長は厳しい主君でしたが、非情な主君だったとは限りません。残された事実から見るなら、信長は人材を使い切ることを重視した、合理的な戦国大名だったと見るほうが自然でしょう。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC
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