【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆”

Japaaan

【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆”

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第29回(7月26日放送)から始まった「天下一統編」の新たな登場人物として、豊臣秀吉(池松壮亮)の甥・豊臣秀次を山田涼介さんが演じることが発表されました。

秀次は豊臣家を語る上でとても重要な人物です。

山田涼介さん演じる豊臣秀次(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

1591年(天正19年)末、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次は、秀吉から関白職を譲られます。また、年が明けると左大臣に補任され、秀次は名実ともに豊臣家の氏長者となりました。

一方、秀吉は1592年(天正20年)4月、唐入り(朝鮮出兵)のため肥前名護屋城に着陣します。そして、京都聚楽第を居城とした秀次は二代目武家摂関として、秀吉とは独立した形で国内統治機構の整備を進めていくのです。

その後、秀吉の命により日本軍が次々と渡海を開始し文禄の役が本格化するとともに、内政面において関白秀次は独自の政治基盤を構築していくことになりました。

同年末に元号が文禄に改元。これは、秀吉から秀次への政権継承を内外に示す意味合いがあったとも考えられています。

そのようななか、1593年(文禄2年)にはいると、名護屋城本丸に滞在する秀吉のもとに数々の報告がもたらされました。

秀吉の耳に届いたのは、「関白秀次様に不穏な動きあり」というものでした。

そして、その動きが1595年(文禄4年)6月の秀次切腹とその一族の悲劇に繋がっていくと考えられるのです。

※合わせて読みたい:

無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相

戦国時代、わずか15歳で処刑された駒姫の悲劇!殺生関白・豊臣秀次の悪行の数々

秀頼誕生だけでは説明できない秀次粛清の原因

秀吉による最初の唐入り、つまり文禄の役は、1593年(文禄2年)7月に、日朝間に講和が成立するとともに停戦に入ります。

その1ヵ月後、秀吉は懐妊が判明しすでに大坂城に戻っていた淀殿(井上和)が男子(後の秀頼)を出産したと知ると、急ぎ大坂へ帰還しました。

生れた男子を見て、秀吉が驚喜したことは想像に難くありません。そして定説では、この子に関白の座を継がせたいと考えた秀吉は、早々に秀次に統治権を継承したことを悔やみ、それが秀次自害に繋がっていったとされています。

もちろん、秀頼に対する秀吉の溺愛ぶりは間違いないでしょう。しかしだからと言ってこの説には、やや無理があるのではないでしょうか。

それはこの当時、秀頼の後見役として安心して任せることができるのは、豊臣(羽柴)一族ではもはや秀次ただ一人と言っても過言でなかったからです。

秀吉が最も信頼した弟の大和大納言秀長(仲野太賀)は、1591年(天正19年)にこの世を去っていました

50代も後半に入り晩年を迎えていた秀吉が、秀頼を大切に思うのであればあるほど、秀次の存在は大きかったのです。

このことを裏付ける史料として、山科言経の『言経卿記』があります。それによると秀頼誕生直後には、全国を五つの区域に分け、そのうち四つを秀次一つを秀頼に任せるという構想を秀吉は抱いていたとか。

しかし、そのほかの史料からは構想の変化もうかがえます。『駒井日記』には、秀吉は前田利家夫妻を仲人として、秀頼と秀次の娘を婚約させ最初は秀次、そして秀頼が成長した暁には秀次から天下を受け継がせるとしたとされるからです。

このことから、秀吉が秀頼を後継者にしたいという明確な意図が読みとれるのです。

豊臣家に生まれた二つの権力の対立

ただそれでも、1594年(文禄3年)の秀吉と秀次の関係は平穏に流れます。しかし裏では、秀次に対しての暗雲が徐々に立ち込めていたと考えられるのです。

それは絶対的権力者である豊臣家に、二人の後継者ができたことによる悲劇でした。まさに、両雄並び立たずという状況が否応なしに起こってしまったのです。

豊臣秀頼像/養源院蔵(Wikipedia)

つまり、秀吉と秀頼を中心とする勢力。言い換えれば、秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が急激に台頭したこと。この勢力に対して、現関白である秀次の統治機構を担う勢力の対立が起き、それが表面化していくことで、やがて秀吉が秀次排除の意思へと傾いていったとも考えられるのです。

そして、1595年(文禄4年)6月、秀次に謀反の疑いが持ちあがり、秀次は高野山で切腹、その一族と側近たちはことごとく粛清されるいう憂き目に遭ったのでした。

聚楽第の大改修が意味するものとは

では、なぜ秀次は突然謀反の罪を着せられ、滅亡に追い込まれたのでしょうか。

その理由は文禄の役の最中、九州の秀吉にもたらされた「関白秀次様に不穏な動きあり」が発端であった可能性があるのです。

城郭考古学という分野で著名な千田嘉博氏は、この不穏な動きの正体を、秀吉が築き秀次が居城としていた京都聚楽第にあると指摘しています。

『聚楽第図屏風』(Wikipedia)

しかし、京都大学防災研究所の振動波を用いたレーダー探査により、地中の痕跡から天守や堀の位置など、その全体像がかなりの精度で復元可能となったのです。

この調査で分かったことは、聚楽第の範囲はこれまで知られていたよりも1.6倍の広さになるということ。また、本丸の北西角の推定地からは、天守閣とみられる固い地盤の高まりが検出され、城への出入り口である「虎口」とみられる堀の切れ目も三カ所で見つかりました。

これだけでも貴重な発見ですが、この調査による最大の成果は、本丸東堀の約70メートル東には、幅40メートル、深さ8メートル以上の人工の窪み、すなわち大規模な外堀が見つかったことでした。またこの外堀は、東側だけでなく北側や西側でも確認されているのです。

そして最も注目を集めたのは、こうした外堀は、聚楽第を囲んでいた周囲の大名屋敷を取り壊してまで、広げようとしていた意図が認められたことでした。

『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第(Wikipedia)

この外堀拡張がいつ行われたのかは、調査からは断定できていません。しかし千田氏は、秀次が聚楽第の大改造に乗り出したのは、秀吉が朝鮮出兵のため、肥前名護屋城にいる期間だったと推測しています。

ではなぜ、秀次は聚楽第に外堀を設けたのでしょうか。実は聚楽第は、本丸・二の丸・馬出しを備えながらも、広大な外堀を持たず、純粋な軍事拠点とは言いがたい構造でした。

それを秀次が新たに外堀を造ることで、聚楽第を「単なる政庁」から「一大軍事拠点」へと変えようとしたと考えられるのです。

聚楽第の遺構が語る秀次事件の真相

秀吉の留守中に、秀次が聚楽第を戦闘可能な城郭に改修した真意は何であったのでしょうか。

それは、秀吉が行う朝鮮出兵への断固たる反対行動であったのではないかとみられます。

後世において、秀吉の唐入りに対する評価は厳しいものがあります。日本中の大名を疲弊させ、結果的に豊臣家の将来に対する芽も摘んでしまいました。

ただ繰り返しになりますが、太閤としての秀吉の権力は絶大でした。だからこのような状況下でも、表立って反戦を唱える者はいなかったのです。しかし、多くの大名の間では秀吉に対する不満が膨らんでいったことは間違いないないでしょう。

もとより朝鮮出兵に距離を置いていたとされる秀次とその側近たち。彼らに対し、唐入りに不満を持つ大名たちの期待が集まったとしても、決して不自然ではなかったでしょう。

朝鮮での戦況如何では、一気に反秀吉勢力の台頭も考えられると踏んだ秀次聚楽第の大改修は、その備えであったのかもしれません。

しかし秀次の行動は、ことごとく秀吉の耳に入ります。ただその時点では、聚楽第の改修は中途半端な状況であり、秀次としても何とでもいいわけができたのではないでしょうか。

豊臣秀次像/瑞泉寺蔵(Wikipedia)

ところが秀頼が誕生すると、秀次を取り巻く環境は一変します。利休も自害し、秀長も病気で亡くなってしまい、正面切って秀吉を制する者がほとんどいなくなっていた状況も秀次には災いしました。

そして聚楽第の改修工事が、結果的には秀吉に対する謀叛と見なされ、それが「秀次切腹事件」へと発展していったとも考えられるのです。

地中に埋もれている聚楽第の痕跡が、豊臣政権の弱体化に波及したともいえる、この事件の真相を示唆しているのかもしれません。

そうなると秀次は無実で粛清されたのではなく、確固たる謀反の意志があったとも考えられます。

そしてそこには、無謀ともいえる秀吉の朝鮮出兵に、身命をかけて抗議するという新たな秀次像も見られるのです。

※合わせて読みたい:

無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相

戦国時代、わずか15歳で処刑された駒姫の悲劇!殺生関白・豊臣秀次の悪行の数々

※参考文献
千田嘉博著 『城郭考古学の冒険』 幻冬舎新書

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆”」のページです。デイリーニュースオンラインは、聚楽第豊臣兄弟!豊臣秀次戦国時代豊臣秀吉カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る