【豊臣兄弟!】酷評の愚将・信雄が江戸時代まで延命、評価が高い信孝が25歳で自刃…織田兄弟の残酷な明暗
「豊臣兄弟!」の『清洲会議』でクローズアップされた、織田家の後継候補の次男・織田信雄(山脇辰哉)と、三男・織田信孝(結木滉星)。
四宿老(柴田・丹羽・羽柴・池田)の評価はそれぞれでした。
「信雄様は、評判もよくないし上様(信長)も評価してなかった」と、自然にディスる小一郎(仲野太賀)。
「信孝様は、あれは大将の器ではない」と酷評する池田恒興(堀井新太)。
柴田勝家(山口馬木也)は信孝推し、丹羽長秀(池田鉄洋)は「わからん」。
そして、“四宿老が三法師の後見になる”となった時の織田兄弟の表情が…。
「フンッ!」という信孝と、「なんだこいつは」とねめつけるように見る信雄は、胸のうちがはっきり顔に出ていましたね。
実際は、戦の経験も豊富で家臣から評判がよかった信孝。25〜26歳という若さで秀吉に自刃に追い込まれました。
かたや、武将としての評価は低いのに、73歳まで生きぬいた信雄。
信長の息子なのに、「自刃」と「長生き」という真逆の人生だった織田兄弟を探ってみました。
血気盛んで気の強そうな信孝と、気に入らんなコイツという目でチラ見する信雄。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
カットなって敵を煽るという軽率な失敗をした信孝本能寺の変後、羽柴秀吉(池松壮亮)は、信孝を明智光秀(要潤)討伐の総大将に据え、山崎の戦いに挑みました。
最初は「今すぐ総攻めを仕掛けるべし!」と息を巻きつつも、秀吉らに説得されて一度は落ち着きます。
ところが、数に押された明智軍が退却を始め、信孝は「兵を鼓舞する!」と飛び出してしまいました。
そして、味方の兵の中に進み出て「この信孝がそなたらの戦功に必ず報いる!この信孝が!」と日の丸の扇子を振りかざし、大声で名乗りをあげるものだから、敵方から矢を放たれてしまいます。
そのせいで信孝を守ろうとして矢で射抜かれてしまった小一郎の子・与一郎(大西利空)。初陣だったのに……坊ちゃんがイキリ倒したせいで。
それでも、与一郎が倒れたとき、即座に「大事ないか」と駆け寄り抱くという、人としての優しさはあるのですが。
かっとなるとネジが飛んでしまう性格に描かれていました。
意気込みは十分だけれど気持ちがはやり軽率な行動に出てしまった信孝(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
三法師を岐阜城に抱え込んでしまった信孝永禄元年(1558)に生まれた織田信孝は、永禄11年(1568)に神戸城主・神戸具盛の養子となり後継になります。
若い頃から重要な戦いに参戦して手柄を立て、天正10年(1582)には信長から讃岐国(現在の香川県)を与えられ、四国征伐の総大将を命じられました。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の報を聞いた信孝は、すぐ駆けつけられる摂津にいたものの、寄せ集めの軍隊だったために兵が逃亡しなす術もなかったとか。
3日後の5日には、従兄弟の織田信澄を「明智の娘婿だから通じているに違いない」と殺害しています。
そして、中国方面から引き返してきた秀吉と合流、『山崎の戦い』で光秀を討つものの、実際は信孝の兵は4000ほどでした。それに対し、約20000ほどの兵を率い全軍の指揮をとった秀吉のほうが実質的な総大将となったのです。
清洲会議では四宿老が三法師の共同後見人になり、信孝には兄・信忠の美濃国と岐阜が与えられ、安土城の修復が終わるまで、岐阜城の自分自身の手元に三法師を預かります。ところが、まるで自分が後見役のようなふるまいを見せるようになったとか。
前回の「豊臣兄弟!」の中でも、「修繕が終わるまでは、ここでゆっくり過ごしてください」と三法師をうまく丸め込んでいましたね。幼子は、何を言われているのか理解できていないように見えました。
秀吉には、「ザ・羽柴家」の瓢箪柄の小袖を着せられ、吹き込まれたセリフを言わされ。
信孝には「ここでゆっくりお過ごしを」と丸め込まれ。
事情はわかってなさそうなのに「うむ」と言ってしまう三法師。政争の道具感が強すぎて哀れになってしまいました。
策を巡らせる織田信孝。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
天下人ぶる秀吉に牙を剥く信孝清洲会議後、まるで天下人のような振る舞いを見せる秀吉に腹立たしい思いを抱いた信孝は、同様に秀吉を嫌う柴田勝家に接近。
柴田勝家以外の三宿老は、清洲会議での決定をなかったこととし信雄を暫定的な織田家の当主として担ぎ上げます。
そして、秀吉は、三法師を岐阜城に抱え込んだ信孝を「謀反」の口実で天正10年(1582)に岐阜城を取り囲み信孝を急襲。
福井・北ノ庄城の勝家は、北陸地方の豪雪によって道が閉ざされて岐阜に援軍を送ることはできず……ということを読んだ秀吉の作戦だったのです。
信孝は無念ながらも秀吉に三法師を引き渡し、母や乳母、娘らを人質に供出して和睦をしました。
翌年天正11年(1583)、三月になって雪解けとともに柴田勝家が出陣、4月には降伏していた信孝も岐阜城で挙兵しますが、勝家は秀吉に敗れて1月24日に北ノ庄城にて自害。
頼みの綱の勝家を失い、信孝は岐阜城を開城し尾張国に向かい、内海大御堂寺に退きました。
そして、4月20日(5月2日とも)安養院にて信雄の命令によって自害します。25歳(26歳とも)の短い人生でした。
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人物の評判が高かった信孝
父・信長の「天下布武」を意識したのか、『一剣平天下』(※)という馬蹄形印判を使用していたという信孝。※「剣一振りで天下を平らげる」の意味
天下を取る気満々の織田信孝の人物評価は、兄の信雄と比べると高かったようです。
信孝はキリシタンになることを望んでいたとか。「コンタツ(信者用の数珠)を常に身につけている」理由について「父・信長の耳に届くようにするためで、父が構わないようならキリシタンになる自由を得るだろう」と述べていたそうです。(『1580〜82年度のイエズス会士の年報』)
また、ルイス・フロイスは信孝の人物像を、「佐久間殿(信盛)の外には、五畿内に於いて此の如く善き教育を受けた人を見たことがない」「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、又大なる勇士である」と記述してるそうです。(谷口克広; 高木昭作(監修)「織田信孝」『織田信長家臣人名辞典』)
信孝像「たらちねの名をばくださじ梓弓いなばの山の露と消ゆとも」は、『天正記』にある信孝の辞世。wiki
武将としての評価が低い信雄一方、「豊臣兄弟!」のドラマ内でもディスられているほど、武将としての評価は低いのが、次男・織田信雄(山脇辰哉)です。
前述のように、ルイス・フロイスは信孝の評価は非常に高いのですが信雄に関しては「そこまでいう?」というくらい酷評しています。
例えば、安土城にいた明智軍の家臣が、城を燃やさず退却した後のこと。
「(前略)…付近に居た信長の子、御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので、何ら理由も無く、彼に邸と城を焼払う様命ずる事を嘉し給うた。(城の)上部が全て炎に包まれると彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった」(ルイスフロイス『日本史』)
現代語に訳すと、「安土城付近にいた信長の息子、御本所(織田信雄)は、普通の人より知恵が劣っていたので、何の理由もなく、自分の邸と城を焼き払うように命じた。城下町にも火を放ったために大部分が消失した」という内容。
さらに『日本西教史』には、より手厳しい内容が。
……人の痴愚と呼做す信長の次男は安土に在り、其父の仇たる兇賊の爲めに或は奪ひ取られんことを恐れ、信長が多年心を費し莫大の費用を散じて建設せし華麗なる宮殿、城砦、及び世人の名所として觀覧する安土の市街に放火せり。(日本西教史)
右から5行目。「人の痴愚と呼做す信長の次男は…」『日本西教史』上巻 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/943460 (参照 2026-08-20)
現代語にしてみると……
「人々が愚か者だと呼ぶ信長の次男は、安土にいた。父の仇である兇賊(明智光秀)の手に奪われることを恐れ、信長が長年心を込め、莫大な費用をかけて建設した華麗な宮殿や城砦、そして世間の名所として人々が観覧する安土の市街に火を放った。」
というように酷評しています。
ただこれらに関してはのちの調査などから、正確なものではなく信雄がキシタンになってから棄教したなどの経緯から、かなり厳しく書かれたものと推測されています。
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小一郎に策をささやく信雄。めずらしく笑顔でも腹の底が読めない。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
その時々で有利そうなほうにつく信雄信雄が「愚将」のイメージを背負ったのは、天正7年(1579)9月『天正伊賀の乱』の大失敗によるところが大きいようです。
信雄は信長に相談もせず、勝手に約8000もの兵を率いて伊賀攻略を始め大惨敗。
信長は大激怒し「親子の縁を断つ」と伝えたそうです。信雄は、縁切りこそされなかったものの、長い期間謹慎させられました。
さらに、本能寺の変のときには本拠地の伊勢松ヶ島城にて挙兵するも、以前から敵対関係にあった伊賀の国衆が一揆を起こし、十分な兵力もなかったために弔い合戦を断念しました。
これも「イマイチな武将」というイメージになってしまう原因だったそうです。
「三介殿(信雄)のなさることだから」と、周囲に言われてしまうような感じだったとも伝わる信雄…。
清洲会議後には、信雄は秀吉と手を組みます。
そして、天正10年の『賤ヶ岳の戦い』と翌年の春の挙兵で秀吉に負けた信孝。
信雄は、信孝に尾張に引くように甘言し、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺に落ち延びたところで、家臣に切腹を勧めさせて自害に追い込んだのです。
そして、信雄は正式な織田家の後継者となったものの、秀吉にとっては邪魔な存在になり、安土城を退去させられてしまうのでした。
天正12年(1584)、信雄は秀吉との関係を断ち、徳川家康と手を組みます。
本格的に秀吉と敵対関係になった信雄は小牧・長久手の戦いなどを経て、今度は同年の11月に家康に協議することなく単独で秀吉と講和しました。
天正18年(1590)の秀吉VS北条氏の小田原征伐では、15000もの兵を引き入れ出陣するなど、積極的に豊臣政権下での軍事活動に傘下した信雄。
けれども、秀吉から徳川家康の旧領への転封を命じられますが、信雄は「動きたくない」とこれを拒否したため改易。下野国の烏山へ流されます。
1591年、信雄は伊予道後の石手寺に入って出家し、常真(じょうしん)と名乗るようになりました。
その後、家康の口利きで信雄は赦免され、秀吉の『相伴衆』(宴席などに相伴役として伺候した者)となりそれなりの待遇を受けるように。
けれども、豊臣家に忠誠など誓う気持ちはなかったのでしょうか。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは家康に有利になる情報を提供、慶長19年(1614)の大阪の陣では、秀吉の子秀頼から味方になるように頼まれるも断っています。
豊臣家滅亡後、元和元年(1615)に信雄は家康から5万石を与えられました。
その後、信雄は趣味の茶道や庭づくりなどに没頭した優雅な生活を送り、寛永7年1月30年、73歳で京都で亡くなりました。
信長の息子ながら明暗のある人生を送った織田兄弟
戦の経験も豊富で評判が高かったものの若くして自刃させられた信孝。
武将としての勇猛果敢さや統率力などは目立たないものの、その時その時で有利なほうについて73歳まで生き延びた信雄。
けれども、信雄はさまざまな大きな戦に関わりつつも生き残り、結局は幕末まで織田の血を残すという大きな役割を成し遂げた人物でもあります。
大河『どうする家康』では「長いものに巻かれ続ける、父と真逆の人生」というキャッチコピーがつけられていましたが、それだけではない、強靭な精神を持っていたのかも。
これから起こる『賤ケ岳の決闘』で、信孝VS信孝がどのような奮闘ぶりを見せるのか楽しみです。
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柴裕之編 『戦国武将列伝 織田編』 戎光詳出版
織田信雄 鈴木 輝一郎(著)
『日本西教史』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan



