『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【前編】

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『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【前編】

「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、魅力的な人物が数多く登場します。

北条時行をライバル視する諏訪頼継(すわ・よりつぐ)もその1人です。

頼継は諏訪頼重の孫として誕生。将来の諏訪大社大祝として将来を嘱望された存在でした。

しかし鎌倉幕府の滅亡によって人生は一変。足利尊氏と戦い続ける人生が始まります。

中先代の乱で頼継は祖父と父を失い、自身も潜伏生活を経験。やがて時行と共闘しながら、南朝の一員として足利直義と手を組む道を選びました。

しかし足利尊氏の強大な力によって直義と時行は相次いで落命。頼継の孤独な戦いが続きました。

諏訪頼継は何を思い、何を経験し、どう生きたのでしょうか。

諏訪頼継の生涯について見ていきましょう。

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鎌倉幕府滅亡!北条得宗家の遺児を匿った祖父・頼重

嘉暦3(1328)年、あるいは元徳元(1329)年ごろ、諏訪頼継は諏訪時継の子として生を受けました。通称は小太郎と名乗ります。

頼継が生まれた諏訪氏は、信濃国諏訪郡を治める領主の一族でした。

代々諏訪大社上社の大祝(おおほうり。神職)を世襲。諏訪神党という強大な武士団を率いる立場でした。

鎌倉時代初頭には、諏訪氏は御家人として源頼朝に出仕。以降、鎌倉幕府の御家人として北条得宗家から御内人として厚い信任を受けていました。

諏訪氏の後継ぎである頼継も、将来を嘱望された存在として養育されたと思われます。

しかし安穏な日々は突如として終わりを告げることとなりました。

元弘3年/正慶2(1333)年、御家人・新田義貞後醍醐天皇方に味方して鎌倉を攻撃。北条高時ら一族は東勝寺で自害して果てました。

京の都では足利尊氏が後醍醐天皇方として、幕府方の六波羅探題を殲滅。鎌倉時代が終わりを告げた瞬間でした。

このとき、頼継の祖父・諏訪頼重は御内人として高時の遺児・北条時行を信濃国に匿います。

時行の生まれ年は元徳元(1329)年。頼継とほとんど年齢が変わりません。そのため2人は近い立場で育ったと思われ、協力姿勢を強めていくのです。

北条時行。中先代の乱以降、頼継と共闘して運命をともにしていく。

建武政権崩壊の足音!中先代の乱で始まった尊氏との戦い

後醍醐天皇が樹立した建武政権は、すぐに暗礁に乗り上げることとなりました。

倒幕後の恩賞の沙汰が遅滞。土地の所有の裁判に関しても不公平な事例が続出するなどしてました。

逆に一部の公家が手厚く処遇され、大内裏造営のために諸国に増税令を発出するなど、求心力の低下は止めようもありませんでした。

諏訪頼重はこれらの事態を見て、挙兵すべき時が訪れたと確信します。

建武2(1335)年、頼重ら信濃国の武士団は北条時行を奉じて挙兵。信濃国守護・小笠原貞宗らと交戦して鎌倉を目指します。

当時の鎌倉には、建武政権の出先機関として鎌倉将軍府が設置。将軍府の執権は足利直義(尊氏の弟)であり、関東の守りを固めていました。

北条時行軍は方々で敵軍を破って、鎌倉へと接近。武蔵国で渋川義季岩松経家今川範満を討ち取ります。

やがて北条時行と諏訪頼重らは鎌倉を制圧。足利直義は敗走して西へと逃れて行きました。これが世にいう中先代の乱です。

しかし時行軍の快進撃はここで止まります。

京から関東へ下向した足利尊氏が直義と合流。北条時行軍を打ち破って鎌倉を奪還しました。

これにより、頼継の祖父・諏訪頼重と父・諏訪時継は勝長寿院で自害。まだ7歳ほどで頼継も諏訪郡の原山に潜伏生活を余儀なくされました。

まだ幼少であった頼継ですが、諏訪氏の惣領であり大祝を継ぐ立場として生きる道を固めます。

鎌倉の奪還は、建武政権の崩壊と足利尊氏の台頭に繋がった(写真は鶴岡八幡宮)。

潜伏生活の末の挙兵!そして信濃権守への就任

頼継と北条時行の潜伏期間、京の中央政府でも異変が生じていました。

建武政権から離反した足利尊氏が西上して京を制圧。のちに北朝と呼ばれる光厳天皇を擁立しました。

後醍醐天皇は京を脱出して吉野で朝廷を樹立。ここに南北朝時代が到来することとなります。

全国の武士たちは南北それぞれの朝廷に付いて衝突。方々で戦端が開かれる時代となりました。

このとき、頼継は自身の仇である足利尊氏を敵視していたと伝わります。

興国元年/暦応3(1340)年6月24日、頼継は北条時行とともに信濃国伊那郡の大徳王寺城で兵を挙げました。

頼継と時行は、信濃国守護・小笠原貞宗と対峙。頼継と時行は緒戦は勝利したものの、少しずつ兵を失っていきます。

10月23日、立て籠っていた大徳王寺城が陥落。これ以降、頼継は諏訪へと帰還したとされています。

その後も、頼継は諏訪氏復権に向けて動きを続けていました。

興国7年/貞和3(1347)年9月、頼継が朝廷(北朝側と見られる)に信濃守(国司)任命を希望していた記録が残っています。

これは自身や時行と近い南朝一辺倒の関係構築だけではなく、北朝からも信濃支配を認めさせようとしていたようです。

朝廷側が出してきた答えは「信濃権守」という官職。これは権官という定員外の任命でした。これに対して、頼継は改めて正式な「信濃守」への任官を求めます。

このあくなき執念は、やがて別な形で結実していくのです。

次回【後編】に続きます。

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