「大うつけ」はポーズ?若き織田信長が京都で目撃した将軍の権威と「三好長慶」の実力
大うつけの実像
若き日の織田信長といえば、派手な格好で町を歩き、餅を食べながら振る舞う大うつけの姿が有名です。
青年期までの信長は、髪を派手な色の細布で飾り、袴には火打石をぶら下げていました。しかも同じような服装の若者たちを連れて歩いていたと伝えられています。
当時の言葉である「かぶく」には、ふざけた格好をして浮かれ遊ぶという意味がありました。信長はまさに、そんな若者だったのです。
当然、織田家の家臣たちからの評判はよくありません。弟の織田信勝を支持する勢力も増えており、信長は家中で孤立しつつあったようです。
ところが、当時の尾張は商業地として発展していました。信長の奇抜な行動も、町の人々と接する機会を増やし、新しい時代の空気を知るきっかけになった可能性があります。
この姿は、英仏間の百年戦争で若き日のヘンリー五世が領国の無頼の徒と交わり、庶民の要求を知ったという話を連想させます。
もちろん、信長が同じ目的で行動していたとは断定できません。しかし、後に新しい時代を切り開く信長が、尾張の町で人々と接していた点は重要に思われます。
家中の争い信長の周囲では、家中の争いも進んでいました。父の織田信秀は一五四八年、美濃の斎藤道三との対立を解消し、その際に道三の娘である濃姫を信長へ嫁がせています。
斎藤道三は油売りの商人から美濃の実権をにぎった人物でした。そんな道三が信長をどう見ていたのかは、はっきりしていません。
一五五二年には信秀が亡くなりました。その後、一五五七年に信長は、尾張の主権をねらって動いていた弟の信勝を殺害しています。
さらに一五五八年には、尾張上四郡の守護代だった織田信賢を軍事的に破りました。信長はこうして、尾張で勢力を広げるための大きな課題を一つずつ処理していったのです。
そして一五五九年二月、信長は京都へ向かいました。目的は、復活した十三代将軍・足利義輝との謁見です。
信長は義輝との面会を終えると、京都に四、五日ほど滞在して尾張へ戻りました。滞在期間だけを見ると、かなり短い上洛だったと言えます。
しかし、この短い京都滞在で信長が目にした政治の仕組みは重要でした。そこには、将軍の権威と実力者の政治力という二つの現実があったのです。
三好長慶の政治当時、全国の有力大名を京都へ呼び寄せる力を持っていたのが足利義輝でした。ところが、実際の畿内政治では三好長慶が強い影響力を持っていました。
長慶は、将軍を中心とした政治の仕組みを利用しながら、畿内に強大な勢力を築いていたのです。
彼の政治手法は独特でした。権威を持つ者と、実際に政治を動かす者を別に分けていたのです。
信長が京都で見たのは、足利義輝の権威と三好長慶の実力が入り組んだ政治でした。後に大きな勢力を築く信長にとって、これは重要な政治の実例になったと考えられるでしょう。
彼は尾張の商業地で人々と接し、斎藤道三と縁を結び、信勝と織田信賢を退け、最後には三好長慶の政治を目にしました。
そこから信長が具体的に何を学んだのかは、史料だけでは断定できません。しかし、この時期の信長が地方の争いだけではなく、将軍と実力者が動かす中央政治にも目を向けていたことは確かでしょう。
大うつけと呼ばれた若者は、ただ奇抜なだけではなかったのです。
そして信長のその後を知るには、まず三好長慶がどのように畿内を支配し、なぜその政権が衰えていったのかを見る必要があります。そこには、若き信長が吸収した戦国政治の現実が隠されているのです。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC
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