朝ドラ『風、薫る』迫る戦争の影…多江の決断と、歴史を変えた「篤志看護婦」たちの知られざる史実
NHK連続テレビ小説「風、薫る」。最近は、恋愛や結婚、おめでたなど日常的に幸せな話題も続いていた一ノ瀬りん(見上愛)や大家直美(上坂樹里)ら派出看護婦会のメンバーたち。
けれども、時代は確実に戦争へと時を刻み始め、彼女たちにもいよいよ戦争の靴音が聞こえつつあるようです。
東京の製薬会社勤務だったりんの幼馴染の虎太郎(小林虎之介)が、医薬品の支給で朝鮮に行くことを自ら志願。りんや直美が働く『恵風派出看護会』に薬を納品する担当者の引き継ぎと、別れの挨拶を告げに来ました。
身近だった人が戦地に赴くことで、急に目の前に現実が迫ってきたようです。
「戦争…ほんとうにやっているんだ」と呟くりん。
実際に戦争が始まった時の市井の人々は、こんな感じだったのだろうなとリアルに響きました。
そんなとき、看護養成所以来の仲間で病院の看護取締を務めていた玉田多江(生田絵梨花)が、『篤志看護婦』として広島の陸軍病院に出向くため挨拶に訪れます。
史実でも、明治27年(1894)の8月、日本は清国に宣戦布告をして『日清戦争』が始まりました。
この日清戦争で、看護婦たちの懸命な活躍ぶりが世間に広まり、今までで「看護婦」という職業に対する差別や偏見は塗り変わっていったのでした。
多江が覚悟を決めて出向いた篤志看護婦とは、どのような存在だったのでしょうか。
※現代では「看護師」ですが、ドラマの時代に合わせて「看護婦」と表記しています。
医薬品の供給に戦地に赴く虎太郎と別れの挨拶をするりん。(NHK「風、薫る」公式「X」より)
「看護の未来に貢献するため」篤志看護婦を志願「篤志看護婦」は、明治20年(1887)に設立した、日本初のボランティア組織「日本赤十字社篤志看護婦人会」が最初だそうです。
明治20年といえば、ちょうど「風、薫る」のナース7たちが「梅岡女学校付属看護婦養成所」で初めて出会い、とまどいながら「看護」の勉強を始めた頃ですね。
設立規則と発起人名の記録には、有栖川宮妃董子を初代幹事長とし、公家の三条治子をはじめ、佐賀藩の鍋島栄子ら元大名夫人、伊藤梅子(伊藤博文の継妻)、大山捨松(大山巌の妻)、西郷清子(西郷従道の妻)、榎本たつ(榎本武揚の妻)に加え、佐野常民や橋本綱常(日本赤十字社病院の初代院長)の妻も名を連ねています。(日赤初のボランティア組織【篤志看護婦人会発起人名簿】)
多江は、ナース7の中でも入学当初から、一番学問に対する意識が高い女性でした。
自己紹介の時、父も兄も医師だといい「日本の医療の向上に看護婦が欠かせまいと考えこちらにきました」とさりげなく上から目線で皆を見ながら言ったのが忘れられません。
プライドも志も高い女学生でしたが、以来、自分の中にずっとこの時の気持ちを持ち続けてきたのではないでしょうか。
ドラマでは結婚もせずに、看護婦取締として働き続けてきた多江。
「傷ついた軍人さんたちをしっかり看護して、看護の未来に貢献してきます」という言葉は、実に多江らしい崇高な思いを感じるセリフでした。
りんも、即座に「多江さんが行けはあとに続く看護婦も出てきやすい」と、多江の思うところを理解していました。
さまざまな苦労や経験を経てきた彼女たちは、自分たちが「看護婦を職業として生活していく」だけではなく、「看護婦を育てていく」という意識を持っています。
養成所の教師だったバーンズ先生(エマ・ハワード)が帰国するとき、生徒たちに「自分の夢」だとして「日本にたくさんの看護婦を育ててほしい」と伝えていました。
皆、それを叶えようと、ずっと心の中に刻んでいたのがわかる場面でした。
篤志看護婦になると覚悟を決めて告げにきた多江。(NHK「風、薫る」公式「X」より)
日清戦争時、新島八重らが活躍した広島の陸軍病院広島の陸軍病院で篤志看護婦として活躍した人といえば、2013年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公で、福島県会津出身、同志社の創設者・新島襄の妻、新島八重(綾瀬はるか)が有名です。
八重は、明治23年(1890)、日本赤十字の正社員となり、明治27年(1894)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヶ月「篤志看護婦」として活躍したそうです。
八重達が担当したのは、広島陸軍予備病院の第三分院でした。そこは戦争の負傷兵ばかりではなく、伝染病専用の隔離病棟も含まれていました(看護婦4名が伝染病に罹って死亡しています)。(同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」)
実際、日清戦争では負傷兵よりも、病死者のほうが多かったといわれています。
広島ではその前年(明治26年)から赤痢が大流行しており、軍内で感染が拡大すれば、戦地での戦闘や士気、軍の集団生活に大きな影響を与える恐れがあるため、速やかに感染を抑える必要があった。……(中略)……
戦争が始まると、戦地からの帰還者を介して持ち込まれたコレラが市街地を中心に流行し、宇品町では一時警察による交通遮断が実施されるほどであった。(広島市 Web展示会「疫禍来襲!! 近代以降の伝染病と広島の歴史」)
実際に起こった、大規模な人数の赤痢やコレラの発生。
伝染病患者の看護・負傷兵の看護・防疫など、自分たちが感染しないように細心の注意を払いながら行うのは、どれだけ肉体的にも精神的にも大変だったことか。想像を絶するものがあります。
篤志看護婦の活躍ぶりが広まり看護婦希望者が増える
日清戦争における、日赤看護婦の活躍ぶりは、当時のマスコミが大いに讃えて「従軍看護婦」として宣伝し、たちまち国民にその存在を認知されることになりました。
日清戦争後の『論功行賞』(功績を認めて評価し相応の褒賞を与える)では、日赤看護婦は叙勲の対象となり、「新しい女性の職場」として、看護婦の人気は高まっていったそうです。
思えば、「風、薫る」のドラマの当初、「トレインドナースにならないか」と大山捨松(多部未華子)に誘われたとき、りんの中には「病人の世話をしてお金をもらう賤業」という世間と同様の偏見がありました。
けれども、「自分の力で生活をしていきたい」と看護婦への道を選びましたね。
その後、見習いで働く大学病院では医師に軽く見られたり患者に「下女」呼ばわりされたり、さまざまな差別や偏見があることを体験。
大学病院を辞めて新潟の高田女学校の舎監に就いたときも、女学生たちに「なんで看護婦なんか」やっていたのかと、ナチュラルにディスられもしました。
けれども、りんや直美たちは、数年をかけて接する人々に「看護婦」という職業の大切さを少しづつ認識してもらうように努力し続けてきています。
まさか、人の体を傷つけ命を奪う戦争によって「看護婦」がいきなり有名な職業になってしまうとは……皮肉なものです。
「野戦病院へ行幸之図」(皇后による野戦病院への行幸)小林清親 (浮世絵検索)
ユニフォームは「看護婦」の証明ところで、現地で働く多江の看護婦のユニフォーム。は、明治時代から昭和にかけての日本画家・武内桂舟が描いた「看護婦」の絵にそっくりです。(下記参照)
特徴的なのは、大学病院での看護婦の制服や派出看護婦のときのコンパクトなキャップとは異なり、かなり高さのあるナースキャップでしょう。
明治25年頃に定められた日本赤十字社の看護服は、襞(ひだ)を取った高い帽子と、袖山の膨らんだ白いワンピースを基本とし、スカート丈や帽子の高さに多少の変化はあるが、昭和16(1941)年頃まで用いられた。(東京家政大学博物館 収蔵品データベース)
さらに、「赤十字看護師の制服」には以下のような話もあります。
救護員としての赤十字看護師の制服として制定されたのは、詰襟の長袖で、丈は足元に及ぶほど長い白衣であった。救護員制服は、日本赤十字社の救護員としての資格を備え、且つその資格を表明するために必要不可欠であったために制定したという記述がある。(日本赤十字社における看護服装の歴史 橋爪朋子)
確かに、多くの患者で混沌としている軍病院の中では、高さのある赤十字のマークが付いたキャップに全身白衣姿の看護婦は、すぐにその存在を見つけられると思います。
プロとしての威厳も漂っているので、怪我や病気で弱っている患者からは、心強く頼もしく見えるのではないでしょうか。
広島の軍の病院で篤志看護婦として働く多江。(NHK「風、薫る」公式サイトとより)
最後に…第22週の予告では、洋装にエプロン姿で病院にて看護をする大山捨松の姿も見かけました。(前項でご紹介した「日本赤十字社篤志看護婦人会」の発起人名簿には大山捨松の名前があります。)
ひとときの平和だった時代が終わり、これから本格的に戦争が始まり、それぞれの身の上に変化が生じて混沌としていくのかと思うと、ちょっと不安に感じます。
けれども、第22週のテーマが『明るい未来』というところに、きっと救いがあるのかもしれません。
参考:
・同志社女子大学「篤志看護婦としての八重」
・福岡県病院協会「ほすぴたる」日本赤十字社における看護服装の歴史
・広島市 Web展示会「疫禍来襲!! 近代以降の伝染病と広島の歴史」
・日本赤十字社 日赤初のボランティア組織【篤志看護婦人会発起人名簿】
・東京家政大学博物館
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