『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【後編】
『逃げ上手の若君』でお馴染みの諏訪頼継は、中先代の乱で祖父と父を失い、長い雌伏の時を過ごしました。
成長した頼継は信濃権守に任官しますが、信濃守護職の小笠原氏に対抗すべく正式な信濃守に拘り続けます。そしてその想いは、足利直義との連携、日本国中を巻き込んだ観応の擾乱への参加という形で表出しました。
しかし相手は強大な力を持つ足利尊氏。やがて直義と時行は倒れ、頼継は孤軍奮闘を余儀なくされます。
それでも仇である尊氏に降る道を選ばず、最後まで争う道を選びますが…
諏訪頼継は最後の最後にどういう道を選び、そしてどのように諏訪氏を守ったのでしょうか。諏訪頼継の選択の結末について見ていきましょう。
【前編】の記事はこちら↓
『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【前編】 頼嗣?直頼?改名を経ての足利直義への接近頼継の諏訪氏の復権と尊氏への逆襲は、足利直義への接近という形で表れていきます。
正平3年/貞和4(1348)年、将軍家執事・高師直が四條畷の戦いで楠木正行(楠木正成の長男)を撃破。南朝の本拠地・吉野に攻め入って功績を上げています。
高師直一派の発言力が高まると同時に、室町幕府内部では足利直義の発言力が低下。両派の対立は深まっていきました。
両者を支持する陣営は、諸国に存在しています。
翌正平4年/貞和5(1349)年には、頼継のいる信濃国内においても直義と師直による陣営分裂が起こっています。
信濃守護職・小笠原政長(貞宗の嫡男)は尊氏・師直派閥に所属。祢津氏・知久氏が直義派として活動しています。
このとき、頼継が選んだのは足利直義への接近でした。
正平6年/観応元(1351)年12月15日、頼継は「信濃守頼嗣」の名で諏訪大社の神長官・守矢氏に祈願を依頼しています。
翌正平7年/文和元(1352)年1月、小笠原政長の書状の中に「信濃守直頼」という名前が登場しています。
これら二つの名前は「信濃権守」を称した頼継と同じ官途(かんと。官位の来歴)です。つまり頼嗣と直頼は、頼継の別名、あるいは改名した名前と考えられています。
諏訪系図の一部でも「信濃権守頼継」の項に「改頼継又頼寛又直頼」とあります。
この改名は何を指すのでしょうか。
このうち「直頼」の「直」は、足利直義から偏諱を受けたものという考え方です。
頼継は中央の勢力争いに乗じる形で信濃での足場を固め、少しずつ勢力を拡大すべく動いていました。
足利直義。尊氏の覇業を支えるが、次第に対立を深めていく。直義とのつながりは、頼継をさらに深い戦乱の渦に巻き込んでいった。
観応の擾乱勃発!頼継、信濃国守護所へ攻め入る中央政権での争いは、頼継の近隣諸国との関わりにも影響していきます。
正平4年/貞和5(1349)年、直頼こと頼継は直義派の一員として師直派の信濃守護・小笠原政長と衝突しました。
翌正平5年/貞和6(1350)年10月26日、足利直義は京を脱出。その後、敵対していた南朝に降るという行動に出ました。
京を脱出した直義には、信濃の武士・知久四郎左衛門尉が同行。自然、信濃国内の直義派の頼継との連絡・提携が行われていたことは想像できます。これが世にいう観応の擾乱の始まりでした。
正平6年/観応2(1351)年1月、高師直の一族である関東管領・高師冬が直義と対立。関東を追われた師冬は甲斐国須沢城に逃げました。
このとき、師冬を包囲して自害に追い込んだのが直頼こと頼継です。
この戦いには、信濃の市河氏も参陣しており、直頼の名前で市河泰房に軍忠状が発行されています。
市河泰房は、当時の市河氏の惣領・市河頼房(助房の子)の甥で、代理として出陣していました。
同年、市河氏は船山郷の小笠原政長の守護館放火にも参加。加えて守護代・小笠原兼経の守る筑摩軍放光寺攻めにも関わっています。
かつて小笠原氏と共闘していた市河氏ですが、代替わりとなると頼継と共闘関係にあったようです。
同年2月、直義は打出浜の戦いで高師直らを撃破。京に進撃して高師直一派の排除に成功します。
2月26日、摂津国において高師直は一族の師泰らとともに直義派によって殺害。以降、直義が京における政治の中心的立場を確立します。
しかしこれは兄の尊氏とその子・義詮との関係を悪化させるものでした。
7月30日、直義は再び京を脱出。11月25日に上杉憲顕のいる鎌倉に入って尊氏との決戦に備えました。
頼継は直義派の一員として、北条時行らとともに次の戦いを見据えていたのです。
将軍家執事・高師直。幕府内部で権勢を誇るが、直義派によって殺害された。
共闘者退場…孤軍奮闘する修羅の道へ足利尊氏らの政治巧者ぶりは、頼継や直義を追い詰めることとなります。
尊氏と義詮は南朝に降伏した形をとって、逆に南朝から直義追討令を発出させることに成功しました。
正平6年/観応2(1351)年12月、尊氏は薩埵峠の戦いで直義軍を撃破。直義を降伏させて鎌倉を支配下におきました。
翌正平7年/文和元(1352)年2月26日、足利直義は鎌倉で急逝。同日は高師直の命日であり、そのタイミングから、尊氏による直義毒殺も唱えられています。
これにより直義派は大きく勢いを喪失しましたが、頼継は反尊氏の立場を変えませんでした。
頼継は南朝の征夷大将軍・宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁して信濃国内を転戦。信濃と上野国の国境である碓氷峠まで進軍しています。
頼継のもとには、仁科・高梨・滋野といった信濃の武士たちが参集。中先代の乱のときと変わらぬ勢いでした。
南朝軍は新田義貞の子らである義興と義宗軍が上野国中の尊氏方を撃破。武蔵国に進軍しています。
やがて新田軍には北条時行も合流しており、南朝軍は閏2月23日に鎌倉を制圧しています。
しかし南朝方は小手指原で敗北。その後も方々で敗戦を重ね、鎌倉は再び尊氏の手に落ちました。世にいう武蔵野合戦の結末です。
正平8年/文和2(1353)年5月20日、逃走中の北条時行が尊氏方に捕縛され相模国龍ノ口で斬首。共闘していた友の死について、頼継は何を感じたでしょうか。
直義と時行の相次ぐ死は、頼継をゆっくりと、確かに追い詰めていくのです。
室町幕府初代将軍・足利尊氏。頼継の強大な敵として長い戦いを繰り広げた。
決断の時!滅亡か恭順か…反尊氏を貫いた結末頼継は信濃国内を中心に尊氏方の周辺勢力を交戦し、自領を守るべく奮闘を続けていました。
正平10年/文和4(1355)年8月、頼継は塩尻の桔梗ヶ原で北朝の尊氏に味方する甲斐守護・武田信春、信濃守護・小笠原政長と長基親子らと衝突。善戦したもののあえなく敗れています。
信濃国では、既に南朝方の勢力は衰退。頼継がこれ以上の抵抗を続けるのは難しい状況でした。
同年12月、諏訪下社領の塩尻郷金屋で北朝方に敗北。頼継は宗良親王から離れる道を選びます。
翌正平11年/延文元(1358)年、一族の諏訪円忠(室町幕府奉公衆)が頼継に降伏を勧告。しかし頼継は受け入れません。
尊氏が祖父・頼重と父・時継の仇であり、共闘した直義と時行のことを思えば、今さらという思いもあったと考えられます。
しかし決断する時は、突如として訪れました。
正平13年/延文3(1358)年4月30日、足利尊氏が京で病没。将軍職は嫡男の足利義詮が継承して二代目となりました。
これをもって頼継は室町幕府に降ることを決意。高梨氏らと義詮に恭順する道を選びます。
室町幕府を支える一員となった頼継は、それまでとは変わって南朝への攻撃姿勢を強めていきます。
正平14年/延文4(1359)年12月、足利義詮は南朝へ大規模な攻撃を開始。頼継も兵を率いて義詮に味方しています。
しかしこれをもって足利方の勢力と和睦したわけではありませんでした。
正平20年/貞治4(1365)年、信濃守護・小笠原長基と金屋で衝突。長基が塩尻郷の春近折中分を石清水八幡宮へ寄進したことが原因でした。
その後も頼継は信濃の周辺勢力と抗争を継続。没年は不明ながら、大祝と惣領を子孫に伝えて世を去ったようです。
諏訪頼継の生涯は、惣領として一族を守り、誇りを持って戦い抜いたものでした。
命をかけて足利尊氏に争った生き様は、諏訪氏の歴史とあり方に強い影響を与え、漫画『逃げ上手の若君』でも描かれています。
頼継の人生は一族を守るための運命を賭した戦いそのものだった(写真は諏訪大社上社)。
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『諏訪史料叢書 27』https://dl.ndl.go.jp/pid/1185905/1/7 『諏訪史料叢書 28』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/9 小林計一郎 「信濃守護考」(所収:『信濃中世史考』 吉川弘文館 1982年) 『長野県史 通史編 第3巻 中世2』 長野県史刊行会 1987年 阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」(所収:國學院大学地方史研究会『史翰』21号1994年)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


