吉田松陰の妹を「2人娶った男」――幕末、陰で長州藩を動かした知られざる実務家・楫取素彦【前編】
幕末の長州藩といえば、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允あたりの名前がまず浮かびます。ところが、藩の仕事をしていた人まで見ていくと、もう少し違った顔ぶれが出てきます。その一人が、楫取素彦(かとり もとひこ)です。
この人の経歴を見て、まず驚くのは、吉田松陰との関係でしょう。楫取は松陰と親しく付き合い、その妹・寿と結婚しています。そして寿が亡くなると、今度はもう一人の妹、文と結婚しました。
文は久坂玄瑞の妻でもあります。久坂が禁門の変で亡くなったため、その後は未亡人となっていました。つまり楫取は、松陰の妹を二人とも妻にしたわけです。
こう書くと、ずいぶん変わった人生に見えます。実際、楫取素彦という名前より、「松陰の妹を二人娶った男」として知っている人もいるかもしれません。でも、楫取の人生は、それだけではありません。
むしろ面白いのは、幕末の長州で藩の仕事をし、明治になると群馬県令として県政を担った、その仕事ぶりです。
松陰や高杉、久坂のように自分の名前を前面に出して時代を動かした人物ではありません。人と人の間に入り、藩の仕事を進め、交渉し、行政を動かす。そういう「実務」の世界で生きた人でした。
今回は、そんな楫取が長州でどんな道を歩んできたのかを見ていきます。
萩の藩医の家に生まれる
楫取素彦は1829(文政12)年、萩藩の藩医・松島家に生まれました。12歳のとき、小田村家の養子となり、名前も小田村伊之助となります。学問を学んだのは、長州藩の藩校・明倫館でした。さらに江戸へ出て、儒学者の安積艮斎にも学んでいます。
当時の武士にとって、学問は今でいう「勉強しておけば役に立つかもしれない」というものではありません。藩の仕事をするなら、学問はかなり大事でした。政治のことを考え、文章を書き、人と話し、藩の命令を伝える。そうした仕事には、それなりの知識が必要です。
楫取も、こうして学問を身につけながら、藩士としての道を歩いていきました。そして、その後の人生に大きな影響を与える人物と出会います。吉田松陰です。
楫取は松陰と親しく付き合うようになり、やがて松陰の妹・寿と結婚します。この結婚をきっかけに、楫取は松陰の家族とも深くつながっていきます。その縁は、松陰が亡くなったあとも続きました。
松陰が亡くなったあとも、藩の仕事は続いた1859(安政6)年、吉田松陰は幕府によって処刑されました。松陰の死後、その門下からは高杉晋作や久坂玄瑞らが政治の世界へ出ていきます。長州藩そのものも、幕府との対立を深めていきました。ただ、楫取は高杉や久坂のような動き方をしていません。ここが楫取を見るときの面白いところです。
彼は、政治運動の先頭に立って大声を上げるタイプではありませんでした。藩士として、与えられた仕事を一つずつ進めていく。藩の方針を伝える。人と人の間に入る。交渉する。
楫取の生き方は、決して派手ではありません。けれど、こういう仕事がなければ藩の政治は動きません。歴史の教科書では、どうしても「誰が何を言ったのか」「誰が戦ったのか」が目立ちます。その裏側には、文書を作ったり、交渉に出向いたり、人間関係を調整したりする人たちがいました。
楫取は、そちら側の人間だったと考えるとわかりやすいでしょう。松陰が人を育て、高杉や久坂が激しく時代を動かしていく一方で、楫取は藩の中で仕事を続けていました。この違いは、楫取という人物を見るうえでけっこう大事です。
薩長同盟の時代幕末になると、長州藩と幕府の対立はさらに激しくなります。1864(元治元)年には長州征討が行われ、長州藩は厳しい状況に置かれました。
ところが、その後に大きな変化が起こります。長州と、それまで敵対していた薩摩が手を組むことになったのです。1866(慶応2)年に成立した薩長同盟です。今では「薩摩と長州が手を組んだ」と簡単に説明されます。しかし、考えてみればかなり大胆な話です。
少し前まで戦っていた相手と、今度は一緒に幕府と向き合う。そう簡単に話がまとまるわけではありません。長州側では木戸孝允らが交渉に動き、坂本龍馬らも両藩の間を取り持ちました。楫取も、このころの長州藩の政治の中で仕事をしています。
こうした激動の時期に藩の実務を担っていたのが、楫取だったのです。
妻・寿の死と、文との再婚楫取の人生には、明治になってからも松陰の家族が深く関わってきます。最初の妻、寿が亡くなったのは1881(明治14)年。その2年後、1883(明治16)年に、楫取は寿の妹・文と再婚します。文は吉田松陰の妹であり、久坂玄瑞の妻でもありました。
久坂は1864年の禁門の変で亡くなっています。その後、文は一人で暮らしていました。そこへ、姉の夫だった楫取との縁が生まれます。姉の夫と、その妹。現代の感覚からすると、かなり驚く話です。けれど、当時の人間関係を考えると、家同士のつながりや、残された家族の生活という問題も見えてきます。
楫取と文の結婚は、単なる「珍しい再婚話」として片づけられるものでもありません。文は後に美和、美和子と名を変え、楫取とともに明治の時代を生きていきました。松陰を中心に結ばれた人間関係は、幕末が終わっても消えませんでした。そして楫取自身も、人生の大きな転換点を迎えます。
長州を離れ、群馬へここまでの楫取を見ると、「松陰の友人」「松陰の妹の夫」という印象が強いかもしれません。ところが、楫取の仕事を追っていくと、明治以降の人生はかなり違った顔を見せます。
明治維新によって、幕府も藩もなくなりました。これまで藩のために働いていた武士たちは、新しい国の仕組みの中で生きていかなければなりません。楫取もその一人でした。長州を離れ、向かった先は群馬です。
そこで楫取は県政に関わるだけでなく、群馬の産業や教育にも力を注いでいきます。当時の群馬にとって、特に重要だったのが養蚕と製糸でした。幕末には長州藩の政治の中で仕事をしていた楫取は、明治になると群馬の産業や教育をどうするかを考える立場になります。ここから先が、楫取素彦という人物のもう一つの顔です。
【後編】では、群馬県令となった楫取が、養蚕や製糸、そして教育にどう向き合ったのかを見ていきます。
参考文献
楫取素彦没後百年顕彰会編『男爵楫取素彦の生涯』(2012 毛利報公会) 中村紀雄著『楫取素彦 吉田松陰が夢をたくした男』(2014 書肆侃侃房)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan