【豊臣兄弟!】前田利家がまさかの撤退!「賤ヶ岳の戦い」裏で妻・まつはどう動いたのか?

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【豊臣兄弟!】前田利家がまさかの撤退!「賤ヶ岳の戦い」裏で妻・まつはどう動いたのか?

「いっそ、この日のもとじゅうに、ずっと雪が降ればいいのに…」

切実で憂いを帯びた、前田利家(大東駿介)の妻・まつ(菅井友香)の声。

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」第32回『賤ヶ岳の決闘』の予告で、久しぶりにまつが登場しました。

ネットでも、いつ「おまつ」が登場するのかと待ちかねていたファンの間では歓喜の声が。

羽柴VS柴田の戦いのキーパーソンとなるのは夫・前田利家です。

NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより

「親父殿!」と慕い、与力として支える柴田勝家(山口馬木也)と、娘を養女に出すほど親密な関係の羽柴秀吉(池松壮亮)のどちらにつくか、利家は両者の間で板挟み状態になります。

史実では、賤ヶ岳の戦いは天正11年(1583)なので、この頃まつは36歳くらい。永禄2年(1559)11歳で長女を出産、天正8年までに2男9女を出産しているので、すでに11歳の子の母となっていました。

まつは、勝家への忠義か秀吉への友情か、板挟みになって悩む利家のそばで見守りつつ、案じたのは夫の心配だけではなく、子や前田家の行く末だったようです。

前田家を支え、豊臣政権の重要な地位に導いたという賢夫人の誉高いまつ。

この賤ヶ岳の戦いではどのような動きをしたのでしょうか。

若い頃の負けん気の強いまつ。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)

前田家の将来を懸念したまつ

「豊臣兄弟!」で、まつが初登場したのは第5話『嘘から出た実』でした。

織田信長(小栗旬)による武芸を競う御膳大試合で、利家にコテンパンに叩きのめされる藤吉郎(秀吉)を見て、大声で「さすが殿!」と利家を応援する、勝気な少女というイメージでした。

この頃は、12〜13歳ほどと推測されるので、利家と結婚したばかりの頃でしょうか。

『川角太閤記』(江戸時代初期に書かれたとされる秀吉に関する逸話をまとめたもの)によると、前田家と羽柴家との仲を深めるため、利家は子のいない秀吉夫妻に数えで2歳の四女・豪姫を養女としてだしました。

ドラマでは、赤ん坊の豪を羽柴一家が覗き込み「又左の娘とは信じがたい」と笑っている幸せそうな場面が流れましたが、史実でも秀吉は豪姫を溺愛していたと伝わります。

このことで利家と秀吉の間の信頼関係は深まりました。

ドラマでは一緒にお茶の時間を過ごしているのに、まつはバチバチに寧々(浜辺美波)を煽りつつ、「うちの殿自慢」をしてマウントを取っていた姿が印象的でした。

けれども、実際は、寧々とまつは親密な関係を築いていたと伝わます。

長年、親しい関係を築いてきた友人夫婦だったのに……。

羽柴 VS 柴田の戦いにより、実の娘の豪姫が実父と養父の間で板挟み状態になってしまう心配や、寧々との友情関係にヒビが入りかねない状況や、前田家の将来に立ち込める暗雲の気配への不安。

まつとしては、黙って何もせず、ただただ胸を痛めているわけにもいかなかったでしょう。

「うちの殿のほうが優れている自慢」をやり合うまつと寧々。その間で妊娠中なので二人の団子まで平らげてしまう秀吉の姉・とも。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

なぜ…夫・利家は戦いから撤退したのか

「清洲会議」により決定的に対立した羽柴秀吉と柴田勝家。

天正11年(1583)、滋賀県長浜市の賤ヶ岳付近で柴田軍 VS 秀吉軍の『賤ヶ岳の戦い』が勃発しました。

琵琶湖北岸で睨み合いのこう着状態から、一時は柴田軍が有利になったものの、秀吉が驚異的な猛スピードで現場に駆けつける『美濃大返し』で一気に形勢不利な状態になります。

それとともに、打撃を与えたのが利家の撤退でした。

利家、なぜ?……に関して明確な理由を記した一次史料はないそうです。『賤岳合戦記』など軍記物でも、利家の布陣や行動などの記述はあるものの「なぜ退いたのか」という動機までは書かれていません。

状況証拠や後年の研究などによる代表的な説を要約して挙げると……

▪️勝家の命令で利家が秀吉のもとに講和交渉に出向いたとき、実は密約を交わしていた。その褒美として、戦後に勝家は加賀2郡を加増された。

▪️若いころから仲がよく、妻同士も交流があり、実子の豪姫を秀吉に養女に出しているという深い関係が断ち切れず秀吉を選んだ。

▪️冷静に誰が「天下人になれる器か」と考えると勝家ではなく、要領よく物事を動かす秀吉だろうと判断した。

▪️利家は勝家の「与力」なので主従関係ではなかった。戦況をみて柴田軍が劣勢になった時点で、勝家に殉じて前田家を滅ぼすよりも、存続を考えて撤退した。

最後は、現在最も有力視されている傾向にあるそうです。

信長の葬儀の席で見せた秀吉の「我こそが天下人」パフォーマンスを見て思案顔の利家。NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより

利家を責めず秀吉のもとへいけと告げる勝家との別れ

『賤岳合戦記』には、

勝家府中の城に至前田父子に対面し此中苦労の段一礼ねん比にのへつゝ極軍のせめに遇て如此の次第更に言葉もおはしまさす候急き湯漬を出され候へと心静に食し痩さる馬を所望し急き給へり利家も送候はんとて立出られしを辞し返し候ひけるか又よひかへし其方は筑前守と前々入魂他に異なり必今度の誓約をひるかへし安堵せられ候へと云捨てわかれにける

という場面が書かれています。現代語に意訳してみると…

「勝家は府中の城に至り、前田父子に対面し、『このたびのご苦労の段、ねんごろに一礼申し上げます』と述べました。

激しい責めに遭ってこのような次第となり、もはや言葉もありません、『急いで湯漬けを出してください』と、心静かに食事をし、痩せた馬を所望して急いで発たれました。

利家も『お送りしましょう』と立ち出ようとしましたが、辞退して押し返し、さらに呼び返して、『その方は筑前守(秀吉)と以前から親しく、他とは異なる間柄である。必ず今度の誓約を翻して安堵されよ』

と言い捨てて、別れました。」

撤退した利家を責めず働きに礼を言い、これからは秀吉につくようにと去っていく。

誇り高く自身の信念に忠実だった勝家らしさが伝わる、見事な別れでした。

軍記にある創作や脚色などはありうるとは思いますが、まさにドラマとして描きがいのあるエピソードでしょう。

柴田勝家(右田年英)(浮世絵検索)

賤ヶ岳の戦いのときまつはどう動いたのか

さて、この利家の戦線離脱の決断に対して、まつはどのような動きをしたのでしょうか。

まつが、直接的に何かの行動に出たという一次史料はないそうです。

けれども、まつは秀吉の正室・寧々とも親しい関係にあり、その人脈を活かし何かしら外交的な役割を果たした可能性が高いという推測がされています。

主に『川角太閤記』(江戸時代初期成立の二次史料・聞書)では「秀吉は利家と会談をする前にまず、まつと面会した」あるそうです。

そのときに、まつが秀吉に利家の赦免を嘆願・釈明し和議が成立したという話が、一般的にもっとも知られている逸話だといわれています。

ドラマでも豊臣兄弟は、「まずは妻から調略」して話を通す場面が多く登場したのを思い出しますね。

大人びて登場したまつ。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より

まつは長男・利長に「豊臣に従軍せよ」と伝えた…

さらに、金沢文芸館HPの“「戦国乱世を生きた良妻賢母」~利家の正室まつ(芳春院)の生涯~” という講座(金沢工業大学名誉教授・藤島秀隆氏)「利家夫婦の第二の危機」の記述を一部、引用してご紹介します。

早くから秀吉の勧誘に応じて、利家は中立的な立場をとらざるを得なかっかった。利家は勝家および秀吉と親しい間柄で、戦意を持たなかったと思われる。

まつは長男利長に対して、秀吉側に従軍することを強く勧めたという。心ならずも敵味方に分かれた秀吉と利家の関係修復と斡旋に心をくだき、両者の仲を復活させたまつの努力は、賢夫人と賞賛するに値する。

と、まつが敵味方に分かれてしまった秀吉と利家の関係修復に、長男・利長に秀吉に従軍することを強く勧めたという説です。

確かに、戦国一の賢夫人ともいわれるまつらしいと頷ける説ですね。

2002年大河『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』で、「私にお任せくださりませ」のまつを演じた松嶋菜々子さんのセリフが題になりました。

浅野加寿子エグゼクティブ・プロデューサーによれば

「ある意味では女性のカンから出た言葉ですが、出まかせではないんです。カンというのは経験や情報に裏打ちされているもので、先行き不透明な時代ほど女性のカンがものいうんです」と解説。
(NHKアーカイブス 大河ドラマ『利家とまつ加賀百万石物語〜』)

「先行き不透明な時代ほど女性のカンがものいう」という説明は、すごく納得です。

ドラマでは、まつが「秀吉が有利」とカンで見抜き「無駄な戦いで兵たちの命を散らすな」と利家に意見をする……という流れだったとか。

まつが秀吉に放免を嘆願したという逸話は強調せず、夫婦の対話による利家の決断が描かれていたようです。

前田利家とまつの像(小丸山城) photo-ac

まつは前田家の中で発言力があった

夫・利家を叱咤激励することもあったと伝わるまつ。

一次史料には直接残る逸話は見当たらず、多くは江戸時代初期以降の軍記物や二次史料・伝承に基づくものです。

興味深いのは『利家夜話』の「前田利家は能登国を嫡男の、利長に譲る」の項目。

一、 大納言様、能登国を孫四郎様へ御渡なされ候時、村井豊後を下され候様にと仰せられ候、さなく候はゞ、奥村伊予を下され候へと、表向より斎藤刑部・岡田長左衛門御使にて、御訴訟候へば、御内証よりも、御母儀様仰せられ候へば、尤も孫四郎申す如く、世上無事に候故に、孫四郎は取合はず、肥前は、信長なされたる事も、若年の頃、二三度も見申し候、其上柳ケ瀬の大きなる人数立も見申し、

現代語に意訳すると、「利家は、村井豊後(村井長頼)を利長付きとして与えていただきたい。もしそれが無理なら、奥村伊予(奥村永福)を付けていただきたいと考え、表向きには斎藤刑部・岡田長左衛門を使者として、その旨を申し入れた。

すると、利家の内々の考えからも、御母儀様(利長の母・まつ)がおっしゃったことからも、当然のことであるということになった。」

この、「御内証よりも、御母儀様仰せられ候へば」という短い文に注目です。

利家が長男・利長の家臣団を整える際に、「御母儀様(まつ)」の意見も考慮されていたことが読み取れます。

まつが利長の将来や身辺について、少なくとも利家家中で一定の発言力を持っていた可能性が見えてくるような感じです。

ただ夫の身を案じるのだけではなく、嫡男・利長の将来を考えて、思ったことをはっきりと発言する母だったのかもしれません。

おまつの方の石碑 尾山神社 wiki

最後に……

これらの逸話から、まつは「夫を堂々と意見する強いしっかりものの妻」というイメージが、ドラマなどで強くなっていったそうです。

史実として確かなのは、戦国時代、まつが7人もの子を産み育てて前田家の存在に大きく寄与したこと。

のちに、豊臣政権の外交を支えていく立役者となる利家は、かっとなって猪突猛進するイメージもありますが、ときの権力者が交代する際にはすぐに対応して上手に世を渡っていく機知も持ち合わせていたともいわれます。

そんな夫をあるときは叱咤激励しつつ、しっかり発言していくまつが、今後どんな女性に描かれ活躍していくのか楽しみです。

参考:
・金沢文芸館HP 第2回伝承文芸講座 加賀百万石の礎を築いた芳春院まつの物語です
講師:藤島 秀隆(金沢工業大学名誉教授)
・利家夜話

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