どちらを信じるべき?日本史料と中国史料…『日本書紀』と『隋書』の“食い違い”が教える古代史の真実

Japaaan

どちらを信じるべき?日本史料と中国史料…『日本書紀』と『隋書』の“食い違い”が教える古代史の真実

存在しない記録

古代日本の歴史を調べると、まず登場するのが『古事記』『日本書紀』ですが、前者は神話なのでおいておくとして、史料として重要なのは後者でしょう。

奈良県立博物館蔵・国宝『日本書紀』(Wikipediaより)

ところが、この日本書紀にもどう解釈したものか迷ってしまう点があるのはご存じの通り。今回取り上げるのは、遣隋使に関する不思議な食い違いです。

日本書紀には、600年に遣隋使が派遣された記録がないのに、中国の『隋書』には倭国から使者が来たと記録されているのです。

『隋書』の倭国伝には600年の遣使が記され、さらに607年には倭王多利思比孤が使者を派遣したともあります。

ではどちらを信じるべきなのでしょうか。

『隋書』の成立は7世紀半ばで、『日本書紀』は720年です。ですので、より600年の出来事に近い時期の記録という点では『隋書』に分があります。

もちろん、成立が早ければ無条件で正しいわけでもありません。中国の正史にも、王朝の立場や政治的な目的が反映され、現代の実証史学の観点で見れば捏造と呼ばれても仕方がない記述がなされることは珍しくありませんでした。

それでも600年の遣隋使については、『隋書』に記録があること自体が重要な手がかりになります。日本側に記録がないことと、中国側に記録があることを同時に考える必要があるのです。

記録の目的

そもそも『隋書』は、隋という王朝の歴史をまとめた中国の正史です。そこには倭国だけでなく、周辺諸国との外交や朝貢に関する情報も記録されています。

中国側から見れば、外国から使者が来たことは外交上の出来事です。だからこそ、倭国からの使者についても記録する理由があったのでしょう。

一方、『日本書紀』は日本の王権が編さんした歴史書です。日本側にとって重要だった出来事を中心に記録するという性格があり、外国側の記録とは目的が異なります。

つまり、両者にはそれぞれ記録する理由と記録しない理由があります。ここを無視して、片方だけを正しい史料と決めることはできません。

興味深いのは、日本書紀では600年の遣隋使の記録がない一方で、607年には小野妹子を隋へ派遣した記事が登場することです。遣隋使そのものを否定しているわけではありません。

遣隋使といえばこの人、小野妹子(Wikipediaより)

比べて読む

ここで大切なのは、日本史料か中国史料かという二択にしないことです。両方を並べることで、それぞれの史料だけでは見えない部分が浮かび上がります。

また、史料同士が一致したからといって、それだけで事実が確定するわけではありません。記録者の立場や目的、伝聞の可能性まで考える必要があります。

600年の遣隋使の記録についても同じです。日本書紀にないから存在しなかったとも、『隋書』にあるからすべて正しいとも言えません。

さらに、文献だけで判断する必要もないのです。考古学の資料や東アジア各地の記録を重ねれば、倭国が隋と接触した背景を別の角度から検討できます。

実際、遣隋使の研究では『日本書紀』と『隋書』の比較が長く行われてきました。両史料の記述には違いがあり、その違いそのものが研究対象になっています。

道の駅「妹子の郷」

結局のところ、歴史研究で問われるのはどちらを信じるかではありません。それぞれの記録が何を伝え、何を伝えていないのかを確かめることが重要なのです。重要なのは、その記録がいつ成立し、誰が、どのような目的で残したのかという点です。

600年の遣隋使は、そのことをよく示す例でしょう。古代史では、記録が一致している部分だけでなく、むしろ食い違っている部分にこそ、新しい事実へ近づく手がかりが残されているのです。

600年の遣使については、現在でも研究が続いています。『日本書紀』と『隋書』の記述には複数の相違点があり、遣隋使の回数や派遣時期についても研究者による検討が行われているのです。

参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「どちらを信じるべき?日本史料と中国史料…『日本書紀』と『隋書』の“食い違い”が教える古代史の真実」のページです。デイリーニュースオンラインは、古代史古代日本隋書日本書紀中国カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る