『豊臣兄弟!』千利休(吉岡秀隆)ついに登場!なぜ信長や秀吉は「茶の湯」にここまで傾倒したのか?
日本にお茶がもたらされたのは、奈良・平安時代とされ、遣唐使や留学僧によって伝えられたものと考えられています。
やがてお茶は禅宗と結びつき、さらに豪商や大名ら武士の間で茶の湯として独自の発展を遂げ、日本を代表する伝統文化へと成長していきました。
現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、織田信長(小栗旬)や豊臣秀吉(池松壮亮)が茶の湯を愛好する姿が描かれています。そして第33回「北庄(きたのしょう)城の別れ」の予告シーンにはついに千利休(吉岡秀隆)が姿を現しました。
では、そもそもお茶はいつ日本に伝わり、どのようにして武将たちをも魅了する文化へと発展していったのでしょうか。
今回は、そんな茶の湯の歴史をたどってみましょう。
お茶は最初、薬として受け入れられた
お茶が文献に初めて登場するのは、815年(弘仁6年)のことです。
『日本書紀』に続く、日本の正史・六国史の一つ『日本後紀』には、「大僧都永忠が近江の梵釈寺で茶を煎じ、嵯峨天皇に献じた」と記されています。
鎌倉時代になると、臨済宗の開祖・栄西は留学先の宋で喫茶文化に触れ、その効能に注目します。ここで注意したいのは、この時代のお茶が「薬」としての性格を強く持っていたことです。そのため、栄西が帰国後に記した日本最古の茶書とされる書物も、『喫茶養生記』と名付けられました。
その後、お茶は禅宗寺院を中心に普及し、しだいに嗜好飲料としても飲まれるようになっていきます。
また、栄西から茶の種を譲り受け、京都・栂尾の高山寺で茶を栽培したと伝えられるのが、華厳宗の僧・明恵上人です。栂尾で栽培された茶は「本茶」と呼ばれるようになり、その後、茶の栽培は伊賀・伊勢・駿河・武蔵などの各地へと広がっていきました。
こうした動きのなか、南北朝時代になると、茶の産地を飲み当てる「闘茶(とうちゃ)」が盛んに行われるようになります。室町時代には、華やかな座敷でお茶を中心とした宴会も流行し、お茶は次第に娯楽性の強いものへと変化していきました。
遊びの茶から「侘び茶」へ遊興娯楽としてのお茶が流行する一方で、禅の思想などから、世俗を離れた簡素な生き方を理想とする茶の湯も生まれました。
その先駆者とされるのが、室町時代の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)です。珠光は大徳寺の一休和尚に参禅したと伝えられ、唐物を中心としたそれまでの茶の湯に対して、簡素な草庵の茶を志向した人物でした。
彼は信楽・伊賀など素朴な国産の茶道具にも目を向け、華美な唐物だけを尊ぶのではなく、不足のなかに美を見いだそうとします。これが、後の「侘び茶」へとつながる大きな一歩となりました。
そして珠光の茶風を受け継いだのが、堺の豪商・武野紹鴎(たけのじょうおう)です。紹鴎は田舎屋のような草庵分風の茶室を用い、質素な空間のなかに精神性を求める茶の湯をさらに発展させました。この茶の湯は、京都や堺の富裕な町衆の間にも受け入れられていきます。
千利休 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
そして紹鴎の思想を受け継ぎ、さらに深めた人物が千利休(宗易)でした。利休は、茶室や茶道具、作法にいたるまで、徹底して簡素化を進めます。
そこに表現されたのが、「やつしの美」と呼ばれる美意識です。やつしとは、高い身分や豪華さをあえて隠し、質素で目立たない姿に身を落とすこと。そうすることで、かえって奥深い趣や気高さを表現するのです。
こうして利休は、禅の精神を背景に簡素な空間と道具、そして人をもてなす心を一体化させた「侘び茶」を大成していきました。
信長、秀吉を魅了した千利休利休は堺の商家に生まれ、塩魚を扱う魚問屋を営んでいたといわれています。しかし、次第に茶人として名を高め、織田信長、そして豊臣秀吉に仕えるようになります。信長のもとでは茶頭を務め、秀吉の時代になると、その存在感はさらに大きなものとなり、やがて天下一の茶の宗匠と称せられるようになりました。
秀吉の実弟・豊臣秀長(仲野太賀)からは、「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と言われたと伝えられるほどです。つまり、利休は単なる茶人ではなく、天下人の側近として政治的な役割を担うまでになっていたのです。
しかし1591年(天正19年)、秀吉の逆鱗に触れた利休は堺への蟄居を命じられ、やがて京都・聚楽第で切腹して果てました。利休切腹の理由については、茶道具や大徳寺山門の問題、秀吉との政治的な対立など、さまざまな説が唱えられており、現在も決着をみていません。
ただ、利休が追求した茶の湯の美意識と、秀吉が求めた権力の美学との間に、なんらかの緊張関係があったことは容易に想像できるでしょう。
その象徴ともいえるのが、利休が生涯をかけて追求した茶室でした。利休は茶室の草庵化を進め、それまで基準とされていた四畳半よりもさらに狭い、三畳、二畳、さらには一畳半ほどの茶室まで生み出していきます。
そこでは、秀吉の金の茶室のような豪華さや広大な空間とは正反対の、狭く静かな空間だからこそ生まれる緊張感と精神性が追求されました。
豊臣秀吉と秀長 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
さらに利休は、従来の茶の湯にとらわれない自由闊達な発想で、茶室や茶道具のあり方を変えていきます。高弟の山上宗二も、このような利休について「宗易は名人なれば、山を谷、西を東と、茶の湯の法を破り、自由せられても面白し」と評しています。
利休は、伝統を守るだけではなく、自ら新たな価値を生み出す茶人でもありました。しかし、このような利休の茶の湯に対する信念や行動が、秀吉との対立を生じることになり、それが利休滅亡という悲劇に繋がったとも考えられるのです。
利休の死後、茶の湯はさらに広がっていく利休亡き後、「侘び茶」の精神は門人たちに引き継がれていきました。利休の門人には、豊臣政権下で重きをなした大名・武将も多く、その代表が細川三斎(長岡忠興)、織田有楽斎、古田織部らです。
彼らは後世「利休七哲」と呼ばれ、大名茶の発展に大きな役割を果たしました。大名茶では、利休の侘びの精神を受け継ぎながらも、茶室や茶道具などに武家らしい豪壮さや華やかさ、そして自由な美意識が加わっていきます。
一方、利休の茶の湯は、孫の宗旦へと受け継がれます。そして宗旦の三男・宗左(そうさ)が表千家、四男・宗室(そうしつ)が裏千家、次男・宗守(そうしゅ)が武者小路千家を開き、いわゆる「三千家」が成立しました。
やがて江戸時代になると、茶の湯は武家社会の礼法や社交の一部として定着していきます。大名茶の系譜からは、片桐貞昌(大和小泉藩主)の石州流、小堀政一(近江小室藩主)の遠州流、松平治郷(出雲松江藩主)の不昧流などが生まれ、現在まで受け継がれています。
さらに江戸時代中期以降になると、茶の湯は町人文化のなかにも深く浸透し、日本を代表する伝統文化として広く親しまれるようになりました。
現代に生きる私たちは茶道というと、なんとなく格式が高く難しいものと感じるのではないでしょうか。しかし、利休が追求したのは豪華な道具や広い空間ではなく、限られた空間で一服の茶を丁寧に点て、目の前の客をもてなすことでした。
つまり、お茶の精神の根底にあるのは「一杯のお茶を丁寧に味わい、人との出会いを大切にする」という、素朴で温かな心なのです。
そのようなお茶の意味を再確認しつつ、日々のお茶を味わってみてはいかがでしょうか。
※参考文献
林屋辰三郎著 『図録茶道史』淡交社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan