【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた

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【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた

大河ドラマ「豊臣兄弟!」、兄・羽柴秀吉(池松壮亮)の天下獲りを献身的に支え続けた小一郎(仲野太賀)の活躍は、多くの家臣たちに支えられてのものでした。

今回は、第32回放送「賤ヶ岳(しずがたけ)の決闘」で初登場した、桑山重晴(住田隆)を紹介します。

劇中ではいかにも風采があがらず、すぐに降伏しようとする情けない人物として描かれていましたが、果たしてどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

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賤ケ岳砦を守備する桑山重晴。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

小一郎に仕えるまで

桑山重晴は大永4年(1524年)、尾張国で桑山以則(もちのり)または桑山定久(さだひさ)の子として誕生しました。

桑山氏は鎌倉幕府の重鎮であった結城朝光(ゆうき ともみつ)の子孫で、尾張国海東郡桑山庄(愛知県あま市)を領したことから、その地名を苗字にしたと伝わります。

元服して通称を彦次郎(ひこじろう)と名乗り、諱ははじめ桑山重勝(しげかつ)と名乗りました。

また官途名(主君から許された官職の私称)には修理進(しゅりのしん)・修理亮(しゅりのすけ)を用いていますが、のち正式に従五位下・修理大夫(しゅりのかみ)と叙せられています。

はじめは織田重臣・丹羽長秀(池田鉄洋)の与力として奉公していましたが、天正3年(1575年)ごろに秀吉の奉行衆に名を連ねるなど、そちらへも仕えるようになりました。

丹羽長秀(画像:Wikipedia)

秀吉と丹羽長秀は所領が近かったことから、重晴は両属すなわちどっちへも柔軟に力を貸したのでしょう。

信長政権時代には一万石を領するようになっており、織田家中において高く評価されていたことがうかがえます。

やがて天正10年(1582年)に織田信長(小栗旬)が横死をとげると、織田政権が揺らぐ中で、重晴は秀吉へ従う旗色を鮮明にしました。

すると秀吉は、重晴を羽柴長秀(小一郎)の与力につけています。

賎ヶ岳の合戦で知略を発揮

天正11年(1583年)に賤ヶ岳の合戦が勃発すると、重晴は激戦が予想される賤ヶ岳砦の守備を任されました。

間もなく佐久間盛政(遠藤雄弥)率いる柴田勢の精鋭が襲来すると、大岩山砦を死守していた中川清秀(すがおゆうじ)は討たれ、岩崎山砦を守備していた高山右近(市川知宏)も善戦むなしく敗走しています。

※劇中では清秀が寝返り、右近もろくに戦わずして逃走したと言われますが、実際は異なりました。最期まで清秀の遺勲も、最善を尽くした右近の武勲も、秀吉から高く評価されています。

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そんな中、重晴は真っ向から敵襲を食い止めようとはせず、あっさり寝返るような素振りを見せました。あくまでも「素振り」です。

これにすっかり慢心した佐久間盛政は油断し、攻撃の手を止めますが、いつまで待っても砦を明け渡そうとしません。

「もしや、謀られたか!」

重晴の計略を察した盛政は、さぞ激怒したことでしょう。しかしもう夜なので無理攻めはせず、明朝一番に攻め立ててやることにしました。

もちろん重晴も敵の怒りは重々承知。時間を稼ぐだけ稼いだタイミングで、兵をまとめて、さっさと賎ヶ岳砦を放棄したのです。

この時間稼ぎによって秀吉の「美濃大返し」が間に合い、浮き足立った盛政の軍勢に痛打を加えることが出来ました。

重晴は丹羽長秀の部隊と合流し、盛政らを攻め立てます。孤立無援の賎ヶ岳砦で無理に抗戦しなかったことで兵力を温存し、ベストコンディションで決戦に臨めたのは、重晴の知略と言えるでしょう。

平時に仲間を欺くのは非道ですが、戦場で敵を欺くのは知恵と剛胆のなせる業。重晴はまさに知勇兼備の名将でした。

戦後の論功行賞で、重晴は丹羽秀重(にわ ひでしげ)や長束正家(なつか まさいえ)らと共に知行を加増されています。

また小一郎が本拠地をそれまでの竹田城から姫路城へ移したのにともない、重晴は竹田城主を任されました。

小一郎には古参の家臣がいる中で、特に重晴が抜擢されたのは、周囲も重晴の力量を認めていたのでしょう。

豊臣政権で活躍

再び秀吉の家臣に(イメージ)

その後も重晴は小一郎の家臣として活躍し、天正13年(1585年)の紀州征伐では自ら敵の首級を上げて感状を受けています。

また小一郎が大和一国を与えられると、重晴は紀伊和歌山城主に栄転し、二万石を加増されました。

やがて天正19年(1591年)に小一郎が世を去ると、その婿養子であった羽柴秀保(ひでやす。姉ともの三男で小一郎の甥)を補佐します。

その秀保も文禄4年(1595年)に世を去ると、大和大納言家(小一郎の一族)は断絶したため、重晴は秀吉の直臣となりました。

同年7月のいわゆる「秀次事件」では、秀吉の警護を務めた功績で一万石を加増され、合計四万石を領することになります。

このころに剃髪・出家して治部卿法印(じぶのきょうほういん)、また果法院宗栄(かほういん そうえい)と号しました。

慶長元年(1596年)5月11日になると重晴は隠居して、家督と修理大夫の官職を嫡孫の桑山一晴(かずはる)に譲ります。嫡男の桑山一重(かずしげ。一晴の父)は既に先立っていました。

隠居後は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として近侍し、慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、遺産として黄金15枚を拝領します。

徳川政権下でも生き延びる

和歌山城(イメージ)

秀吉の死によって、豊臣政権は大いに混乱しました。信長の時もそうですが、一代で事業を急成長させたカリスマが喪われると、その反動は非常に大きくなるものです。

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の合戦では、徳川家康(松下洸平)率いる東軍に属し、和歌山城の守備に当たりました。

勝利によって所領を安堵された重晴は再び隠居し、嫡孫の一晴に二万石、自分の次男である桑山元晴(もとはる)に一万石を分け与えます。

残り一万石のみを自身の所領としましたが、一晴から四千石、元晴から二千石をが養老領として返還されました。そのため重晴の所領は一万六千石となり、これが和泉谷川藩となります。

そして慶長11年(1606年)10月1日、83歳で世を去りました。徳川将軍家は生前の功績により、その遺領を召し上げずに子孫たちへ配分してやったということです。

終わりに

住田隆演じる桑山重晴。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

羽柴家の家臣
もとは秀吉に仕えていたが、賤ヶ岳の戦いのころ秀長に家臣として仕え、筆頭家老となる。紀伊和歌山城代を務め、内政・軍事で秀長を支えた。

※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。

今回は小一郎に仕えて活躍した桑山重晴の生涯をたどってきました。

初登場の第32回放送「賎ヶ岳(しずがたけ)の決闘」では、いかにも風采があがらず、すぐに降伏しようとする情けない人物として描かれています。

マイナスイメージからのスタートとなってしまいましたが、果たしてここからどのように盛り返していくのでしょうか。今後の活躍に期待しています!

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※参考文献:

阿部猛ら編『戦国人名事典』新人物往来社、1990年 柴裕之 編『シリーズ・織豊大名の研究 14 豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月 高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年 『寛政重脩諸家譜. 第6輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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