【豊臣兄弟!】秀長は逃げない!史実が明かす、賤ヶ岳の勝敗を分けた「守りの名将」の真骨頂
1583年(天正11年)3月、柴田勝家(山口馬木也)は約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に布陣します。
一方、伊勢の滝川一益(猪塚健太)を攻めていた羽柴秀吉(池松壮亮)はこの動きを見て、約5万の兵力を率いて近江木之本に布陣し、柴田勢と対峙しました。世にいう賤ヶ岳の戦いです。
賤ヶ岳の戦いは最終的に秀吉が勝利し、敗れた勝家は戦いのわずか2日後、居城の北ノ庄城で夫人のお市(宮崎あおい)とともに自害しました。
賤ヶ岳の戦いの勝敗を分けた理由としては、秀吉による美濃大返しや、前田利家の戦線離脱などが挙げられます。
しかし近年では、秀吉が木之本へ帰陣するまで羽柴秀長(仲野太賀)が田上山砦を守り抜いたことも、大きな要因の一つとして注目されています。
今回は「秀長は逃げない」という論点から、『豊臣兄弟!』第32回「賤ヶ岳の決闘」を振り返ってみましょう。
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田上山砦を死守する羽柴秀長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
中川清秀の悲劇。ドラマと史実の大きな違い1583年(天正11年)4月はじめ、一度は秀吉に降伏していた織田信孝(結木滉星)が再び挙兵すると、秀吉は多くの兵を率いて美濃へ向かい、大垣城に入ります。その間、賤ヶ岳の戦線は、田上山砦に陣取る秀長に任されました。
4月21日、残された羽柴勢が少数であることを知ると、柴田方の佐久間盛政(遠藤雄弥)は中川清秀(すがおゆうじ)が守る大岩山砦を急襲。鬼瀬兵衛と称された猛将・清秀は討死してしまいます。
中川清秀を討ち取る前田利家。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
この大岩山砦の陥落について、『豊臣兄弟!』では、清秀がいち早く寝返ったとし、柴田勢敗走後に前田利家(大東駿介)によって殺害されたことになっていました。
史実では、清秀は最後まで大岩山砦で戦って討死しており、ドラマの描写とは大きく異なります。
【豊臣兄弟!】秀吉と「義兄弟の契り」を結んだ中川清秀、賤ヶ岳の戦いでの壮絶な最期…命を懸けて戦った清秀が、あまりにも気の毒だという声が飛び交ったのも、無理はないでしょう。
「逃げましょう」と言う、桑山重晴の進言を退けた秀長大岩山砦を落とした佐久間勢は、秀長と桑山重晴(住田隆)が守る田上山砦に迫ります。
秀長に得意なことは何かと聞かれ、「長生きすること」と語った重晴。押し寄せる佐久間勢を見るや否や、「逃げましょ。この戦、もはや勝ち目はありません」と秀長に撤退を進言します。
「得意は長生きすること」と語る桑山重晴。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
この重晴、史実では秀吉の命で賤ヶ岳砦の守将を務めていました。その戦いぶりはというと、佐久間勢に対して味方をするように見せかけながら、のらりくらりと時間を稼ぎます。
その後、重晴はいったん砦を捨てて下山しようとしますが、援軍として駆けつけた丹羽長秀と合流し、賤ヶ岳砦を維持しました。戦後、重晴は加増されて竹田城主となり、その後も大名家として存続し、天寿を全うした人物です。
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田上山砦を秀長に一任する秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
撤退を主張する重晴に秀長は、「まだ先陣が来ただけじゃ。いましばらくここで食い止めるのじゃ」と、これをはねつけます。そして佐久間勢に対し、砦の柵内から鉄砲と弓の交互射撃を展開し、攻め手を悩ませました。
この秀長の戦い方を彷彿とさせるのが、留守中に秀吉が秀長へ出した『羽柴秀吉書状』(長浜城歴史博物館蔵)です。
そこには、「惣構の堀から外へ鉄砲をうつことは言うまでもなく、草刈りにいたるまで一人も兵を外に出さないこと」と事細かに指示が記されていました。
秀長が得意とした「守りの戦い」田上山砦で行った秀長の陣地防衛戦は、以前から実践していた戦い方でもありました。
それは、賤ヶ岳の戦いから遡ること5年、1578年(天正6年)10月の三木合戦における平井山の戦いでのことです。
播磨攻めにのぞむ秀長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
秀吉は三木城に立て籠もる別所長治軍の兵糧を絶つため、城の周囲に付城を築きました。兵糧が尽きてきた別所軍は事態を打開するため、秀長が守る平井山に攻め寄せます。
しかし秀長は陣城の守りを固め、砦内から鉄砲や弓を猛射したため、別所勢は長治の弟・治定をはじめ、多くの将兵が討死してしまいました。
この秀長の戦術をわかりやすく箇条書きにすると、以下のようになります。
① 空堀と土塁、柵をめぐらせた堅固な砦を築く。
② その内側から鉄砲・弓などの飛び道具で敵を寄せ付けず、守り抜く。
③ 寄せ手が消耗したところを見計らって、反撃に転じる。
このような陣地戦は、その後の羽柴軍にとって重要な戦い方の一つになっていったと考えられます。
秀長はなぜ「逃げない」のか秀長が陣地防衛において、しっかりとした戦術を持っていたこととともに、もう一つ、秀長が武人として優れていた点を挙げたいと思います。
それは武将として、なによりも大切なこと。つまり「簡単には逃げない」ということでした。
田上山砦で奮戦する羽柴秀長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
正直なところ、秀長がいつ頃から実戦で活躍したのかは定かではありません。ただし、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いでは、信長本隊の退却を助けるため殿軍を務めた秀吉らの撤退戦を最後方で支えたとする見方もあります。
平井山の戦いもさることながら、田上山砦での防衛戦でも、秀吉の美濃大返しまで秀長勢はよく守り抜きました。
戦国時代はいったん逃げ始めると、まるで雪崩のように軍勢が崩れていくことがあります。その理由の一つは、戦国大名の軍団が、現代のような一枚岩の組織ではなかったことです。
たとえ戦国大名が100万石の所領を有していたとしても、そのすべてを大名が直接支配しているわけではありません。家臣たちに所領を与え、それぞれが兵を率いて主君に従うという構造のため、直轄領はそれほど多くはなかったのです。
しかも、領土拡大にともなって加わった外様や新参の家臣も多く、一度軍勢が崩れ始めると、離反や逃亡が連鎖することもありました。
一度ほころびが生じるやいなや、あれほどの栄華を誇った朝倉家も浅井家も武田家も、そして柴田勝家さえも、短期間のうちに滅亡へ追い込まれてしまいました。
それが戦国大名と、その軍団構造が抱えていた弱点の一つだったのです。
豊臣秀長というと、秀吉が天下人となった後、豊臣家を支える宰相として外交や所領統治の分野で活躍した姿に目が行きがちです。
しかし秀長は、「逃げない」という戦国武将にとって最も重要な資質を備えた武人でもありました。
秀吉はこの秀長の能力を認め、自分の名代として大軍の総大将を命じたり、自らの留守を一任したりしています。
「秀長は逃げない」。
強敵を前にしてもしっかり陣を守り、味方の崩壊を防ぎ、最後まで戦線を維持する。やはり秀長は戦国時代になくてはならない、文武両道に卓越した人物だったと言ってよいでしょう。
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磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文春新書
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