【風、薫る】「私はファイターだって」大山捨松、暴言軍人を一喝!看護婦の名誉を守った史実と名場面
「忘れてたわ。私はファイターだって」
久々に登場した、大山巌陸軍大臣の妻・大山捨松(多部未華子)。
たとえ逆境にあっても、ピンチを逆手に取ってチャンスに変える「ファイター」の捨松は、「継子いじめ」していると陰口をいわれ落ち込んでましたが「やることができた」と立ち直りました。
りん(見上愛)と直美(上坂樹里)から、玉田多江(生田絵梨花)が篤志看護婦として出向いた広島の陸軍病院で、「女のくせに口答えするかぁ!」なイキリ軍人の患者に“看護”の邪魔をされている事実を聞きます。
しかも「看護婦と患者の間に不適切な関係」というデマ投書を新聞社に送っていることも。
それを聞いたファイター・捨松、立ち上がりました。悲しげだった瞳にキラリと闘志の炎が燃え上がったようです。
多江の“看護”を助けるため・患者の回復を邪魔させないため……そして、看護婦の名誉を守るため、広島の陸軍病院に慰問に訪れたのです。
実際の大山捨松は、明治20年(1887)設立、日本初のボランティア組織『日本赤十字社篤志看護婦人会』の発起人でした。
さらに、自身、留学先の米国で“看護婦の資格”も取得していた女性でもあります。そして、そのスキルを活かして、日清・日露戦争では、日本赤十字社で負傷者の看護も行なったそうです。
明治時代、日本に“看護”という認識を広めるために尽力した捨松を、感動を呼んだドラマの名場面と、史実の奮闘を探ってみました。
※ドラマの時代背景に合わせて現代の「看護師」ではなく「看護婦」としています。
看護婦の名誉を守るため「ファイター」であることを思い出した大山捨松。(NHK「風、薫る」公式「X」より)
『日本赤十字社名誉社員章』を贈られた小松宮妃ぱっつん前髪から、ウェーブ前髪で高い位置のシニヨンにと、ヘアスタイルも代わった捨松。
パーマ?天然?とネットでも話題になっていますが、日本にパーマが入って来たのは大正12年(1983)だそうです。
そして、洋装の捨松とともに、広島の陸軍病院に共に慰問した高貴な女性が「誰?」と話題になりました。
オフホワイトの花飾りが着いた貴婦人が被る帽子・カメオのブローチ・ドレス姿で、負傷した兵に声をかけていた女性は、ドラマの「風、薫る」のオープニングクレジットによると「小松宮妃」(魏涼子)とのことでした。
実在の人物で、小松宮彰仁親王の妃・彰仁親王妃頼子(あきひとしんのうひよりこ)と推測されています。
頼子妃は、嘉永5(1852)6月18日旧久留米藩主・有馬頼咸の長女で、幼名は満喜といいます。1869年(明治2年)に結婚して、彰仁親王妃となりました。
頼子妃は、明治23年(1890)5月には『日本赤十字社名誉社員章』という「赤十字社の事業に功労ある者」を贈られています。
夫である小松宮彰仁親王(当時、東伏見宮嘉彰親王)は、日本赤十字社の前身である『博愛社』の初代総長で、『日本赤十字社』となったのちも総長を務めたそうです。
日本赤十字社創立貳拾五年のお祝いでは、記念の『日本赤十字社総裁小松宮彰仁親王殿下、日本赤十字社篤志看護婦人総裁小松宮妃頼子殿下』絵葉書が作られています。
小松宮妃と共に軍人病院を慰問したとされる大山捨松
広島文化学園大学看護学部・看護学研究科教授・佐々木秀美氏による『日本初のTrained nurse” 大山捨松の生涯とその時代の伝染病対策及び女子教育』によると…
捨松は,日清戦争中,篤志看護婦婦人会の幹事長小松宮彰仁親王頼子妃(1852-1914)が,広島陸軍予備病院や呉海軍鎮守府病院などを訪問する際,同行した。(注出典:久野明子著『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』(中公文庫,1997年 P277)
と、紹介しています。ただし、
『呉海軍病院史』には,皇太子や皇后陛下等の皇族方,華族の方々が訪れたと記載されているが,捨松等の個人名は特に記載されていない。
(注出典:呉海軍病院史編集委員会:呉海軍病院史,p51,2005年)
と、されています。
実際、冒頭でも触れたように、大山捨松は米国大学在学中からアメリカの赤十字に強い関心を寄せていたそうです。
そして、ヴァッサー大学卒業後にニューヘイブン病院で2か月間、実地看護に従事し、看護婦の免許を取得しています。
そのスキルや知識を発揮したのでしょう。
「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となっただけではなく、日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りなどの活動も行ったと伝わります。
以前、ドラマで「炊き出し」の場面があったとき、捨松は「自分自身も会津戦争を経験して、飢えに苦しめられた思いを忘れられない」と語っていました。
たぶん、そのとき現場で多くの負傷した人々を目の当たりにしてきた捨松は、“看護”の大切さを身に沁みて感じたのではないでしょうか。
陸軍病院で働く多江を助け、看護婦の名誉を回復するために訪れた大山捨松。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
「女のくせに!」な暴言イキリ軍人を黙らせた捨松ドラマでは、小松宮妃が患者の兵士たちに声をかけ退室した後、捨松は再び病室に戻ってきました。
看護婦が、患者に触れて脈や熱を測るという“看護”の仕事をしているというのに、「軍人に女がさわるな〜!」と怒鳴り散らしたイキリ男が誰かを偵察にきたのでしょう。
ちょうど多江は、具合の悪い若い軍人の看護をしていました。
案の定、上官らしきその男は、いやらしい目をしながら部下に合図をして「いよっ!お二人さん、おやすくないねえ」など揶揄させます。
ガキかよっ!…と目の前で面罵してやりたいほど、しょうもない幼稚ないじめ。言いなりになって嫌がらせをしている部下たちも情けなさすぎる。けれど、捨松がその場面をしっかり観察していました。
捨松様の目がキラっと光ります。「なるほど、こいつね?」といった表情。多江に「私をうまくつかえばいいわ」と、俠気のある言葉。
さらに、医師らの静止を振り切り看護婦のエプロンをして病室に入り、具合が悪いのにイキリ上官らからいじめにあっている例の若い軍人患者に毛布を差し「寒くありませんか」と声をかけました。
「その…」と言い淀む彼に、「そうですね。看護婦が親しげに入院中の傷兵に話しかけますと、何を新聞に書かれるか分かりませんものね」と、イキリ上官をちらりとみつつ、さらりと嫌味をいいます。
さらに「看護婦が患者を見て手で触れて話をして患者の状態を観察することが大切なのです」と彼の体を触りつつ、この行為は“看護”という仕事なのだということをアピールします。
さらに、「ファイター」らしくイキリ上官をロックオン。
目の前に近づきつつ、「看護婦の仕事を妨げることは、戦った傷兵の命を軽んじること、ひいてはこの国の国力を落とすことだと心得てください。」と丁寧に、けれども有無を言わさない圧倒的に威厳のある様子で語りかけます。
ぐうのねも出ないイキリ上官。
「軍人は名誉を重んずると聞きます。どうか昼夜の別なく患者のために手を動かし、額に汗する看護婦の名誉も尊重してください」
と、ダメ押し。
陸軍大臣夫人・捨松のこの言葉には、もう誰もなにも言えないでしょう。
“看護とはなにか”までは理解できなくても、「名誉を重んじる“はず”の軍人なのに、子供じみた嫌がらせで悦にいっている己を恥じたのではないでしょうか。
患者を手で触って調子を尋ねることも“看護”だと軍人らに諭す捨松。(NHK「風、薫る」公式サイトより)
新聞や雑誌に取り上げられ人気職業となった看護婦捨松効果で、「看護婦が患者とねんごろに」というデマ記事を書いていた新聞はあらためて『戦傷病者を救はむと昼夜奮闘 國を支ふる看護婦たち』というタイトルでの記事を出しました。
「広島陸軍病院に入院中の患者より、看護婦の働きぶりを正しく理解されたしとの当初がかず多く寄せられたり」という内容のです。
あのイキリ上官やその手下が、反省して書いたのでしょうか。
この記事は、多江たち篤志看護婦だけではなく、現在派出看護婦として働いている女性たちにも勇気と元気を与えたようです。
実際、看護という概念自体がなかった明治時代、見ず知らずの患者の体を触ったり排泄の世話をする看護婦の仕事は「賎業」とさげずまれたり、下女扱いされていました。
けれども、日清・日露戦争で日本赤十字社の看護婦などが軍の病院に派遣され大きな活躍をしたことから、新聞や雑誌に取り上げられ、看護婦は女性のあこがれの仕事へとなっていったそうです。
まさに「ファイター」の称号に相応しい大山捨松
史実の大山捨松は、日本で初めての女子留学生で、大学では日本女性として初の「偉大な名誉」の称号・学士号を与えられた人です。
大山巌との結婚で「権力」を手に入れながらも、そこに甘んじることなく、日本に看護の道を開き、女子教育に尽力し、さまざまな慈善活動に奔走……と、簡単にその活躍ぶりを書いただけでも、「ファイター」の称号に相応しい人物といえます。
ドラマの中でも、夫の「権力」に寄りかかるのではなく、まさに弱気を助け強気をくじくために、わざわざ困難な現場にでていく多部未華子さん演じる捨松は、痺れるほどかっこいいですよね。
捨松は166年前にこの世に生を受けた女性ですが、自分の権力を弱者のために正しく使う姿は、まさに現代を生きる人間こそ見習うべきだと思いました。
参考:
・日本赤十字社『赤十字 名所紀行vol.1』
・日本赤十字社「日赤初のボランティア組織【篤志看護婦人会発起人名簿】」
・広島文化学園大学リポジトリ
看護学統合研究 日本初のTrained nurse” 大山捨松の生涯とその時代の伝染病対策及び女子教育 (広島文化学園大学看護学部・看護学研究科 佐々木秀美)
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