遊女への豪遊が「砂糖の値段」を吊り上げた?オランダ人も虜にした丸山遊郭と江戸スイーツの関係
江戸の町では甘い味を好む女性が多く、菓子屋の前に人が集まる光景が日常的でした。
砂糖は、奈良時代には孝謙天皇のもとへ伝わったとされていますが、当時は貴重品で、その後も長い間一般の人が使うことはほとんどありませんでした。
長らく、日本では甘味と言えば蜂蜜や飴、干し柿などが中心で、砂糖は特別な場で使われる程度の存在でした。
状況が変わったのは島原の乱の後で、鎖国が進むにつれて砂糖の流通量が増えたのです。
江戸の町で砂糖を使った菓子が売られ始めたのもこの時期で、調味料が増えたことで料理や漬物の味が豊かになり、食文化の幅も広がりました。
江戸初期の代表的な砂糖菓子として知られるのが金米糖です。長崎から上方を経て江戸へ伝わったこの菓子は、当初は武士や僧侶などの限られた層しか口にできない高級品でした。
その金平糖も、やがて小壺や桐箱に入れられ市販されるようになります。
すると、庶民の間でも人気が高まりました。砂糖水に小麦粉やけし粒を加えて加熱する製法がヒットして、角のある白い結晶の形や色づけの美しさが人々の目を引いたとされます。
砂糖の普及は江戸の食文化を大きく変える力を持っていたといえるでしょう。
江戸の女性たちと和菓子さて、文政期の隅田堤では桜餅が名物として知られ、多くの人がその味を求めて店を訪れました。
桜の香りと甘味の調和が江戸の人々の好みに合っていたことに加え、店の娘であるおとよの美貌が人気を後押ししたとされます。
おとよは錦絵に描かれるほどの評判で、のちに閣老・阿部正弘の側室となった人物です。菓子の魅力と人物の存在が相まって、桜餅は江戸の名物として広く知られるようになったのです。
桜餅に使われる桜の葉は年間三十数樽で、一樽に約二万五千枚が入っていたため合計で八十万枚ほどが必要でした。
また、桜餅の値段の四分の一が砂糖によって占められていたことからも、砂糖が菓子の価値を左右する要素だったことがわかります。
深川佐賀町の船橋屋も江戸を代表する菓子店として知られ、大名や豪商が客として訪れました。茶を点てる際には船橋屋の羊羹が注文されることが多かったといいます。
船橋屋では小倉や百合、薯、紅、栗など十数種の羊羹が作られ、その品質は最高級と評価されていました。
ちなみに明治期に入って大名や旗本、寺院が没落すると船橋屋もその流れに合わせて衰退。代わって勢力を伸ばしたのが虎屋です。
このように、江戸時代は上流階級が羊羹を好んだ一方で、吉原の遊女たちは金つばやさつま芋を好んだとされます。特に金つばは、女性への手土産としても人気がありました。
丸山遊郭とオランダ人このように砂糖の値段が江戸の食文化に影響を与えた一方で、遊廓の存在が砂糖の相場を左右したという記録も残っています。
享保十七年、長崎の和蘭屋敷に出入りした丸山遊廓の女郎は、延べ24,644人に達しました。ものすごい数です。
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そこで、遊郭に出入りしていたオランダ人がいました。彼らが遊郭で支払った遊興費の正確な額は不明ですが、その費用を捻出するために、彼らは日本の商人に砂糖を高い値段で買わせたとされます。
丸山遊廓での交際費が、砂糖の相場に影響していたのです。
こうした構図は、当時の経済構造を考えるうえで興味深いものです。遊廓の需要が砂糖の価格を押し上げ、江戸の甘味文化と海外との関係が思わぬ形で結びついていたのです。
江戸の町に広がった甘味文化の背景には、こうした複雑な経済の流れが存在していたのです。
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画像:Wikipedia,PhotoAC
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