『逃げ上手の若君』貴族の血を引く反逆者!悪党・瘴奸の実在モデル・平野将監の生涯【前編】
「週刊少年ジャンプ」にて2021年より連載され、現在TVアニメ第2期も放送中の『逃げ上手の若君』には、数多くの魅力的な人物が登場します。
主人公・北条時行を追い詰める悪党・瘴奸(しょうかん)もその1人です。実はこの瘴奸には、モデルがいました。
モデルとなったのは、鎌倉末期に実在した悪党・平野将監入道(ひらのしょうげんにゅうどう)です。悪党と言われる将監ですが、彼は貴族の息子とも言われた存在でした。
鎌倉時代後期、将監は貴族の子として誕生。武装集団である悪党として生きる道を固めていきます。
やがて大寺院との土地争いに介入した将監は、同じく悪党の楠木正成と協力。幕府や六波羅探題に問題視されるものの、貴族,西園寺公望に仕える立場を使い、その追求をかわします。
やがて後醍醐天皇の倒幕計画が露見すると、将監は動きを活発化。やがて大規模な戦に関わっていくことになります。
将監はどのように生き、何を目指して戦い、どう生きたのでしょうか。
平野将監の前半生について見ていきましょう。
西国悪党の惣領格・平野将監入道。鎌倉幕府に抗い,歴史に名を残した。
清和源氏の末裔?平野荘の御曹司として生まれた将監の実像平野将監入道は、平野但馬前司(前但馬守という意味)の長男として生まれたと伝わります。
将監入道という名は仮名(けみょう。通称のこと)であり、諱についてはわかっていません。
近世の系図では将監の諱を「重吉」としており、父・但馬前司の諱を「重紀」としています。
入道という名前から、出家していたとうかがえますが、その時期については不明です。
将監の生家である平野氏は、摂津国住吉郡平野庄を本貫地とする武士の一族でした。
一説によると、清和源氏の初代棟梁・源経基(みなもとのつねもと)の次男・源満政を祖とするともいいます。
世が世であれば、源氏の名門として足利や新田と肩を並べる存在となり得た名門一族でした。
ここで将監とその父の官位と朝廷との関係について見てみましょう。
父・平野但馬前司の仮名から、彼の官職が対馬守(位階は従五位下相当)であったことがわかります。
五位以上は歴とした貴族であり、朝廷とも非常に深いつながりがあったことは確実です。
将監の仮名の由来は「近衛将監」の官位です。位階では従六位上相当であり、決して低くない身分であったことは確実です。
名門武家と朝廷との繋がりは、将監を争いの渦中へと誘っていきます。
悪党の惣領格として西国に君臨!幕府の支配体制を揺るがしていく
将監が拠点とした平野という土地は、重要な土地でした。
位置しているのは、摂津・河内・和泉の境界に近く、天王寺や堺、大和方面へ通じる交通上の要衝です。
そのため、平野一族が単純に一国だけに属する在地武士と考えることはできません。複数の地域を移動し、京の朝廷とも関係を持つ武士だった見ることができます。
一方で平野氏や将監自身は悪党(支配体制に反抗する武装集団)だったと言われており、しかも西国悪党の惣領格とも言える立場でした。
悪党という性格上、朝廷に反抗するというイメージを持ちがちです。しかし将監や平野一族は、朝廷や公家が動かす武装集団という一面も見て取れます。
嘉暦3(1328)年12月、京の三条高倉において放火殺害事件が発生。これは東大寺と下鴨社による、摂津国長洲荘の土地をめぐる抗争が原因でした。
幕府の六波羅探題は犯人で悪党の教性を捕縛。しかし後醍醐天皇は赦免の綸旨を出すという事態に発展します。
土地争いの背後には、朝廷と幕府の争いがすでに存在していたことがわかる事例です。
そしてこの教性と行動を共にしたのが、同じ悪党である将監でした。
元徳2(1330)年、将監は教性らと数千人という数の悪党を率いて延福寺に乱入。城郭を構えて狼藉を働いとされています。
六波羅探題の奉行らは将監ら討伐のために御家人招集を計画。しかしほとんど集まらなかったと言われます。
将監の目的の一つは、幕府の権威を貶めることにもあったのではないかと思われる場面です。
翌元禄3(1331)年、将監は教性に加勢して長洲荘の略奪を計画。東大寺側は将監に乱入を止めるように申し入れます。
ここで将監は銭2万疋という多額の裏金を要求。東大寺側は黙殺したものの、将監の存在感が際立っていたことがわかります。
倒幕計画発覚!将監は朝廷方として行動する
時代の変わり目は、悪党であった将監を時代の中心へと誘っていきます。
元徳3(1331)年4月、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚。六波羅探題は調査に乗り出しました。
これ以降、朝廷と幕府との間で対立が深刻化。後醍醐天皇は京を脱出し、笠置山に立て篭もる行動に出ます。
これを受けて河内国では悪党・楠木正成が挙兵。下赤坂城に籠城して幕府軍を迎え撃ちました。
朝廷と幕府の対立が深刻化する中、将監ら悪党の動きは活発化していきます。
同年、将監と近しい楠木正成による和泉国若松荘で略奪事件が発生。同年7月には、教性らが摂津国猪名荘において略奪事件を起こします。
これは後醍醐天皇が幕府との戦を想定し、兵糧所として悪党側に与えた場所だったようです。
そこを鎌倉幕府側が差し押さえており、悪党から攻撃を加えられたと考えられます。
同年8月、東大寺側は過去の略奪事件に関することで将監を提訴。しかし六波羅探題は「平野は西園寺家の重臣」として、悪党であることを信じませんでした。
実は将監は以前から西園寺公宗の家人として仕えていたようです。
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『逃げ上手の若君』わずか16歳で公卿へ!西園寺公宗の栄光と、鎌倉幕府滅亡が狂わせた生涯【前編】西園寺家は代々、関東申次という幕府との交渉役を担ってきた家柄でした。当然幕府や六波羅探題とは近く、簡単に手出しできる相手ではありません。
その西園寺家の家人でありながら、将監は「不退在京」と称されるほどの地盤を京で築いていたとされます。
そして8月24日、後醍醐天皇は京を脱出して笠置山に籠城。元弘の乱が始まることとなるのです。
次回の【後編】に続きます。
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