【豊臣兄弟!】定説が覆る可能性…和睦は家康から?「小牧・長久手の戦い」で秀吉が発した朱印状2通が発見
天正12年(1584年)、織田信雄(信長次男)と徳川家康が、羽柴秀吉と全面対決に及びました。
主戦場の地名から小牧・長久手(こまき ながくて)の戦いと呼ばれるこの合戦では、戦上手の家康が秀吉を制するものの、信雄が勝手に秀吉と和睦してしまいます。
【豊臣兄弟!】遂に秀吉vs家康の直接対決、勝敗は?全国の猛将が結集「小牧・長久手の戦い」の結末信雄に織田家の実権を取り戻させる大義名分を失った家康は、しぶしぶ兵を収めるよりありませんでした。
……というのが通説ですが、実は「和議を申し込んだのは、秀吉からではなく家康からだった」可能性があるそうです。
今回はその根拠となりうる、秀吉の朱印状を紹介したいと思います。
一通目の朱印状
日付は天正12年(1584年)4月21日、秀吉から家臣の脇坂安治(わきざか やすはる)にあてたものでした。
当時は秀吉側の有力武将である池田恒興(いけだ つねおき)や森長可(もり ながよし)らが討ち死にしてしまい、羽柴勢に動揺が走っています。
朱印状の中で、秀吉はその現実を踏まえつつも陣地構築を進め、防御を固めていることを強調しました。
すぐに態勢を立て直し、すぐにも反転攻勢へ出ようとする意欲が表れています。
そして伊賀国で後方支援(材木調達)を担当している安治に対して、材木をどんどん用意するように命じていました。
「このくらいで狼狽(うろた)えるな!まだまだ資材が必要だから、大いに励め!」と声を張り上げる秀吉の姿が目に浮かぶようですね。
二通目の朱印状
日付は天正12年(1584年)9月6日、誰にあてたものかはハッキリしません。朱印状の中で秀吉はこんなことを言っています。
「小牧の西側へ回り込んであちこちへ火を放ちまくり、新たに数ヶ所の砦を築かせた。まだまだいくらでも戦うつもりだ」
「そうしたら、信雄と家康から『人質を出すので和睦したい』と言ってきた」
「返答を焦らしていたら、今度は『信長の弟(誰?)や徳川家臣たちからも人質を出す』と言ってきた」云々。
何だ、こちらはやる気満々だったのに……そこまで言うなら、和睦してやろうかな。とでも言わんばかりです。
確かに当時の秀吉なら、まだまだ戦力を投入できたでしょう。とは言えまだまだ天下には強豪が残っていたため、油断のならない状態でした。
家康と秀吉によるギリギリの我慢比べを、制したのは秀吉だったのでしょうか。
終わりに
今回の朱印状は兵庫県たつの市の民家(龍野藩士子孫宅)で発見されたもので、令和8年(2026年)8月4日に市立龍野歴史文化資料館が発表しました。
「『家康側が勝った』とされる戦いだが、2点を合わせ、戦いの趨勢(すうせい)をより詳しく知るための貴重な資料になる」
※村井祐樹・東大史料編纂所准教授(日本中世史)
「資料調査に行かせてもらった時に額に入って飾られていて秀吉の朱印状を見てびっくりした。エネルギッシュで上司にしては厳しい細かい指示もある。相当な人物で部下の安治も大変だったと思う」
※新宮義哲・龍野歴史文化資料館館長
これまで家康優位と考えられてきた小牧・長久手の戦いですが、新たな史料の発見や研究によって、その実態が明らかにされていくことが期待されます。
今回発見された秀吉の朱印状は、令和8年(2026年)10月24日から龍野歴史文化資料館で一般公開されるのこと。よかったら、ぜひ足を運んでみてください。
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小牧・長久手の戦いの趨勢、より明らかに 秀吉の朱印状2点見つかる 兵庫・たつの 羽柴秀吉の朱印状新たに見つかる 小牧・長久手の戦いの戦局裏付ける貴重な資料に/兵庫県日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

