「仙境のナイチンゲール」志田周子——“3年間だけ”のはずが一生に…村の命と心に寄り添った51年の生涯【後編】
「仙境のナイチンゲール」と呼ばれる女性医師・志田周子。
【前編】では、周子がどのようにして医師になり、なぜ大井沢へ戻ることになったのかを見てきました。
【前編】の記事↓
「仙境のナイチンゲール」志田周子——雪深い“医者のいない村”を支え続けた女性医師の生涯【前編】「3年間だけ」のはずだった大井沢での暮らしは、いつしか26年に及ぶことになります。
ここまでを見ると、志田周子は「無医村で村人を支えた女性医師」という人物に見えます。もちろん、それは間違いではありません。ただ、周子の人生をもう少し追っていくと、医師という肩書だけでは語りきれない姿が見えてきます。周子は、病人を診るだけの医師ではありませんでした。
左側が志田周子。NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』より
「女医」だけでは終わらなかった周子の活動は、医療だけにとどまりません。婦人会長を務め、さらに大井沢村会議員、西川町会議員も歴任しています。病人を診る一方で、地域の仕事にも関わっていたのです。
医師として村人と接していれば、病気だけを見ているわけにはいきません。その人がどんな暮らしをしているのか。家族はどうしているのか。村で何が起きているのか。診察室の中だけでは分からないこともあります。周子は、そうした村の現実にも目を向けていました。
そして、もう一つ。周子には、医師とは少し違う顔がありました。それは、歌人としての顔です。
医師であり、歌人でもあった周子は歌人の結城哀草果に師事し、アララギ派の歌人として短歌を詠みました。山深い村で、日々患者を診る。病気やけがだけではありません。人が生まれ、年を重ね、そして亡くなっていく。そんな日々の中で、周子は歌も詠んでいました。
大井沢の山。雪。季節の移り変わりなど。そこで暮らす人たちや、医師として出会った人々。そうしたものが、周子の短歌には残されています。
周子の中には、その二つの視線がありました。それは、彼女の人生を考えるうえで、忘れてはいけない部分だと思います。
1959(昭和34)年、周子は、長年の地域医療への功績が認められ、保健文化賞を受賞。「仙境のナイチンゲール」と呼ばれるまでになりました。そして1962(昭和37)年に、51歳で亡くなります。今の感覚からしても、まだ若い年齢です。医師としても、歌人としても、まだ先があったはずです。
残されたのは、周子に診てもらった村人たちの記憶。地域のために働いた記録。そして、歌人として残した作品です。
「3年間だけ」
そう言って始まった大井沢での暮らしは、いつしか一生になりました。人生は、予定表どおりには進みません。けれど、振り返ってみれば、その26年間こそが、周子が大井沢に残した一番大きなものだったのでしょう。
志田周子の人生は、2015年(平成27年)に映画になりました。作品のタイトルは『いしゃ先生』です。平山あやさんが志田周子を演じ、父・荘次郎を榎木孝明さんが演じています。
東京で医学を学んだ女性が故郷へ戻り、山村で医師として生きていく。映画では、その人生が描かれました。東京で学んだ医学を故郷に持ち帰り、雪深い山村で人々の暮らしに寄り添った志田周子。その生涯は、これからも、大井沢の歴史の中に残り続けていくのでしょう。
参考
志田周子(しだ ちかこ)僻地医療に生涯を捧げた女医 大井沢に輝いた志田周子の生涯 志田周子先生歌碑 志田周子「無醫村醫の生活記錄」日本女医会雑誌発行所『日本女医会雑誌 (112)』( 1943) NHK仙台制作グループ『近代東北庶民の記録 下』(1973) 山形県生涯学習人材育成機構 編『新アルカディア叢書 第8集 山形の人 1』(1994)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
