徳川家康が66歳で授かった市姫、生後2ヶ月で婚約も…わずか3歳で迎えた不運すぎる最期
還暦を過ぎてもなお子作りに励み、なんと66歳で娘を授かった徳川家康。
しかし、祝福されるべきその愛娘を待ち受けていたのは、「生後2ヶ月での政略結婚」、そして「あまりにも呆気なく、切ない悲劇」でした。
天下人・家康を激震させた“幻の姫”「市姫(いちひめ)」とは、一体どのような生涯をたどったのでしょうか?
お市の方にあやかりたい!
市姫は慶長12年(1607年)1月1日、家康とお梶の方(かじ。側室)の間に誕生しました。
この時点で家康は66歳。まさに絶倫としか言いようがありません。
命名の由来は、かつて絶世の美女と称えられたお市の方(浅井長政室→柴田勝家室)にあやかりたいという思いだったそうです。
当時、家康は外様大名の中でも最大級の勢力を誇っていた奥州の伊達政宗と連携するため、市姫と政宗嫡男の虎菊丸(とらきくまる。後の伊達忠宗)と婚約させました。
時に慶長12年(1607年)2月8日、市姫はまだ生後2ヶ月目です。
政略結婚もいいところで、上手くいけば徳川・伊達両家の連帯による豊臣家への牽制と、市姫が男児を産めば伊達家の外戚として奥州方面に睨みを利かせることもできるでしょう。
さぁ早く大きくなっておくれ……家康は市姫の成長を心待ちにしていたはずです。
しかしそう上手くは行かず
しかしそう上手くは行かず、市姫は慶長15年(1610年)2月12日に急死してしまいました。
死因は野イチゴを摘んでいる最中、毒虫に刺されてしまったためと言います。人間を死に至らしめる虫と言えば、マダニやスズメバチあたりでしょうか。
まだ3歳という幼い娘を喪った家康が嘆き悲しんだのは、親心によるものと信じたいところです。
ともあれ死んでしまったものは仕方ありません。家康は市姫を懇ろに弔うと、忠宗の婚約者として孫娘の振姫(ふりひめ)をあてがいました。別に市姫でなくとも、徳川家の娘であれば誰だっていいのです。
ちなみに振姫とは池田輝政(いけだ てるまさ)と督姫(とくひめ。家康次女)の娘で、一度自身の嫡男である徳川秀忠の養女として上で、忠宗と娶(めあわ)せました。
一見めんどくさい段取りを経るのは、あくまで「(池田家でなく)徳川家の娘」を送り出すことに意味があったからです。
話しを市姫に戻すと、彼女は清雲院(せいうんいん/しょううんいん)また一照院(いっしょういん)の号を追贈され、静岡市葵区の華陽院(かよういん)に眠っています。
終わりに
今回は徳川家康の娘である市姫について、短い生涯をたどってきました。
もし彼女がすくすく成長していたら、果たしてお市の方に匹敵する美女となっていたのでしょうか。
父親(家康)の容姿は好みが分かれると思いますが、母親(お梶の方)は美貌と才智に恵まれていたそうですから、可能性はありそうです。
両親どちらも頭がよかったようですから、夫を尻に敷く女傑になっていたかもしれませんね。
※参考文献:
斎木一馬ら校訂『徳川諸家系譜1』八木書店、1970年7月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan