将軍がいなくても京都は回る!?「将軍なき政治」を成立させた三好長慶の凄みと崩壊の理由

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将軍がいなくても京都は回る!?「将軍なき政治」を成立させた三好長慶の凄みと崩壊の理由

将軍のいない京都

戦国時代の京都といえば、室町幕府と将軍が政治を動かしていたイメージが強いです。しかし、その常識をくつがえした武将が三好長慶でした。

三好長慶像

三好氏は阿波(徳島県)の守護・細川氏に仕える有力武士の家系でした。ところが長慶の父・元長は細川晴元と対立して自害し、長慶は数え11歳で家督を継ぐことになります。

若い長慶が最初に選んだ相手は、意外にも、父の仇である晴元でした。晴元に従いながら摂津を足場に勢力を広げ、家柄だけに頼らず能力のある人物を家臣に取り立てるという政治を行ったのです。

やがて晴元との対立が深まり、1549年には晴元を近江へ追い出しました。

細川晴元(Wikipediaより)

ここで長慶は、晴元と行動していた13代将軍・足利義輝を京都へ戻す道を選びませんでした。

長慶が始めたのは、将軍のいない京都で政務を行う政治だったのです。朝廷とも協議しながら政務を進め、将軍家を政治の中心から外した政権が成立したのです。

さらに1553年には足利義輝を追放しました。1558年の改元では朝廷から補佐を任されるなど、将軍が担っていた仕事の一部まで長慶が処理しています。

天下を動かす

では、長慶の勢力はどれほどのものだったのでしょうか。

ここでちょっと豆知識ですが、戦国期の「天下」という言葉は現在の日本全国ではなく、山城・大和・摂津・河内・和泉の畿内の五か所を指すことが一般的でした。

ここには政治の中心である京都があります。さらに経済の中心だった堺も含まれており、現在でいえば首都圏に近い重要地域だったのです。

つまり長慶は、単に地方で勢力を伸ばした大名ではありません。京都を軍事的に押さえ、将軍に頼らず中央の政治を動かした武将だったといえます。

そんな三好政権を支えたのが、松永久秀らの有力な家臣でした。長慶は彼らを使って政治を進め、村同士の用水権をめぐる争いまで自ら調停しています。

もちろん長慶は国人出身でしたが、朝廷文化を軽視していたわけではありません。天皇からも信頼を得ていたようです。

その後、長慶と足利義輝は和睦もしています。義輝は1558年に京都へ戻りました。

足利義輝(Wikipediaより)

しかし、それで長慶の政治が終わったわけではありませんでした。将軍が京都へ戻ったあとも長慶が政権の実権を握り続けたのです。

つまり、将軍が存在していても、政治を動かす人物は別にいるという状態が生まれていたのです。

当時は全国の守護大名が、自分の領地を直接支配する戦国大名へ変わりつつありました。幕府や将軍も、領地支配を正当化するための権威として利用される存在になっていたのでしょう。

長慶は京都に居続けることもありませんでした。阿波を弟に任せ、越水城、芥川城、飯盛山城と居城を移しながら、京都と領国を結ぶ地域を押さえています。

これほど居城を移す例は当時としては珍しいものでした。政治だけでなく軍事でも機動性を重視した可能性があります。

長慶の死

ところが、ここから政権の歯車が狂い始めます。1564年、末弟の子である義継を養子に迎えた直後、長慶は43歳で病死しました。

長慶の死後に存在感を強めたのが、家老だった松永久秀です。長慶を支えていた久秀が大きな力を持つようになり、三好政権内部の関係が変わっていきました。

これを好機と見たのが足利義輝で、幕府の実権を取り戻そうと画策しましたが計画が知られてしまい、1565年に三好義継・三好三人衆・松永久通らが京都で義輝を襲撃し、義輝は自害しました。

さらに彼らは、興福寺で覚慶と名乗っていた義輝の弟も狙います。

覚慶は近江へ逃れましたが、この時に覚慶を助けたのは意外にも松永久秀でした。

ここで大きな変化が起きていました。三好政権を支えていた松永久秀が、政権内部の別勢力を支える側へ動いたのです。

三好義継と三好三人衆は久秀と対立し、1565年11月には阿波の足利義栄を14代将軍に立てました。将軍の権威を利用して三好政権を維持しようとしたのでしょう。

一方、覚慶は還俗して足利義秋、さらに義昭と名を変えました。義昭は義栄を倒し、自ら将軍として京都へ入ることを目指します。

こうして三好政権は、足利義栄を擁する三好一族と、足利義昭を支持する松永久秀らに分裂しました。

足利義昭(左)と足利義栄(右)の像(Wikipediaより)

長慶の死からわずか二年ほどで、政権内部の対立が表面化したのです。

そして義昭は諸大名に、自分を将軍として京都へ迎え入れて三好政権を倒すよう求めました。その呼びかけに応じた人物の一人が織田信長です。

三好長慶は、将軍がいなくても京都で政治を動かせることを示しました。しかしそれは、彼個人の実力とカリスマ性によって支えられていたのです。

よって長慶が死ぬと、内部の権力争いが一気に表へ出てきたのでした。

将軍なしの政治は可能だったが、その政治を安定させる仕組みは十分に育っていなかったのでしょう。三好長慶の政権は、将軍を必要としない政治の可能性を示す一方、その政治を個人の力に頼る危うさも残したのでした。

参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia

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