【豊臣兄弟!】本多忠勝vs加藤清正「小牧・長久手」“幻の一騎打ち”と2人に隠された意外な共通点

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【豊臣兄弟!】本多忠勝vs加藤清正「小牧・長久手」“幻の一騎打ち”と2人に隠された意外な共通点

本多忠勝といえば、徳川家康に仕えた「天下無双の猛将」として知られています。一方、加藤清正もまた、豊臣秀吉の家臣として数々の戦場を駆けた武勇の人です。

そんな二人が、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で今後描かれるであろう、「小牧・長久手の戦い」で一騎打ちを演じた。それは史実ではなく、後世に生まれた伝承でしたが、この二人には興味深い共通点がありました。

それは、単なる「戦上手」ではなかったことです。

今回は、本多忠勝と加藤清正という二人の猛将が持っていた、もう一つの顔に注目してみましょう。

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本多忠勝と加藤清正が一騎打ち?後世に生まれた伝承

徳川家康(松下洸平)と織田信雄(山脇辰哉)が手を結び、ついに羽柴秀吉(池松壮亮)討伐の兵を挙げました。これが、1584年(天正12年)3月から11月にかけて行われた、世にいう小牧・長久手の戦いです。

特に4月9日の長久手の戦いにおいては、羽柴秀次率いる別動隊が手薄になった岡崎城を攻めることを察した家康が先回りし、池田恒興らを討ち取ったことで知られています。

楊洲周延作「小牧役 加藤清正 本多忠勝」(刀剣ワールド財団/東建コーポレーション株式会社所蔵)

実は史実ではないのですが、この戦いで本多忠勝と加藤清正が一騎打ちを行ったという伝承があり、その場面が浮世絵に描かれています。それが楊洲周延作『小牧役 加藤清正 本多忠勝』です。

羽柴方の清正、徳川方の忠勝。ともに両陣営を代表する猛将が、秀吉と家康が初めて干戈を交えた合戦で命を懸けて戦う。そんな物語を見てみたいという後世の人々の思いから、このような言い伝えが生まれたのかもしれません。

フィクションではありますが、浮世絵に描かれたこの伝承を簡単に紹介しましょう。

浮世絵には、画面右手側に加藤清正、そして画面中央に本多忠勝が描かれています。ともに槍の使い手である二人の一騎打ちは、なかなか決着がつきません。

そこで両名とも槍を離して組み打ちとなりましたが、最終的には清正が忠勝を組み伏せます。

豊臣秀吉坐像(狩野随川作)(Wikipedia)

そのとき、馬を疾駆してきた武者が二人に対して「それまで!」と声を掛けました。それが清正の主君、秀吉でした。

秀吉は忠勝ほどの剛の者を殺すのは惜しいと述べ、自分の家臣にならないかと誘います。

これに対し忠勝は、家康以外の主君に仕える気はないと断ります。しかし、自分は討たれた身であるからと、首の代わりに「鹿角脇立」の兜を清正に差し出して去っていったというお話です。

後世の作り話とはいえ、生涯を通じてかすり傷一つ負わなかったという逸話のある忠勝も、清正には敵わなかった。そんな物語が描かれたのが、豊臣家への関心が高まった明治後半であったことを考えると、興味深いものがあります。

本多忠勝と加藤清正、二人に共通する「政治力」

忠勝と清正の一騎打ちの話は、この辺にしておきますが、実はこの二人には、重要な共通点がありました。

それは、二人とも単なる武将、そして軍事指揮官ではなかったということです。

もちろん、両名とも出仕した若いころは、一騎駆けの武者として戦場では先頭に立ち、槍働きをしたことでしょう。しかし大名格に出世してからは、よほどのことがない限り、後方に控えて全体の指揮を執っていたと考えるのが普通です。

そして、少し言葉が悪いのですが、軍事指揮官は単なる「戦バカ」では務まりません。つまり、忠勝も清正も、槍働き以外の才能があったからこそ10万石以上の領地を与えられ、数千という軍勢を動かす指揮官として認められたのです。

賤ケ岳での加藤清正(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

忠勝や清正が生きた戦国時代において、大名たる第一の資格は軍事的才能だったでしょう。

しかし、それだけでは領国を管理できません。そこには、政治的な才能も必要でした。

実は秀吉が清正に期待していたのは、財務官僚としての仕事でした。記録に残るだけでも、豊臣家の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官を務めています。

また、秀吉による九州平定・肥後国人一揆の後にも、同地で検地を実施し、税を徴収する仕事を任されました。

このような不安定な政治情勢のなかで、難しい仕事をこなす政治力こそが、清正のもう一つの真骨頂だったのではないでしょうか。だからこそ秀吉は清正に肥後半国、約25万石を与えたと考えることができます。

若き日の本多忠勝(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

そして忠勝も、関ケ原の戦いに臨む前に、井伊直政と組んで西軍諸将に大量の文書を発給しました。

これにより毛利秀元は東軍と一戦も交えず大坂に後退し、吉川広家や小早川秀秋の内通を引き出すなど、東軍にとって有利な状況を作り出していきます。

つまり忠勝の政治的才能もまた、関ケ原の戦いにおける東軍の勝利を支える一因となり、やがて家康による江戸幕府の開府へとつながっていったのです。

本多忠勝と加藤清正。一方は徳川家康に仕え、もう一方は豊臣秀吉に仕え、ともに「猛将」として語られることが多い人物です。

しかし、二人の生涯を追ってみると、そこに見えてくるのは武勇だけではなく、領国を治め、人を動かし、主君のために政治的な難題にも立ち向かう、そのような姿でした。

ここに忠勝と清正が、後世まで名を残した理由があるのではないでしょうか。

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※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書
谷川健一編『加藤清正 築城と治水』冨山房インターナショナル

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