シマケンの挫折は当然だった?『風、薫る』『ブラッサム』朝ドラの時代に隠された文筆家たちの苦境と辛さ

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シマケンの挫折は当然だった?『風、薫る』『ブラッサム』朝ドラの時代に隠された文筆家たちの苦境と辛さ

朝ドラ『風、薫る』には「シマケン」こと島田健次郎が登場しました。シマケンは小説家になりたい夢を燃やして活動しますが…

明治時代の文筆家たちは、現代とは比べ物にならないくらい活動の場が制限されていました。

インターネットが発達した現代であれば、小説の投稿サイトに作品を載せることもできるでしょう。あるいは出版社が主催する新人賞に応募することも可能です。人によっては自費で電子書籍を出す人もいます。

しかし明治、シマケンや朝ドラ『ブラッサム』のヒロイン・のモデルである宇野千代が味わったのは、それはそれは苦しい世界でした。

明治時代、文筆家になるにはどうすればよかったのか。どうすればそこで生きることが出来のか。

明治から大正にかけて、文筆家がどれだけ大変だったか見ていきましょう。

「小説家」という職業はない?就職はかなり現実的だった

明治の文学界においては、現実的な活動が求められていました。

『風、薫る』のシマケンこと島田健次郎は、もともと小説家を志している青年として描かれています。

シマケンは新聞のコラムや書評を担当し、小説家を目指しますが挫折。実家に帰って別の職業に就いていましたね。

当時の文筆家や小説家は、現代とは少し違ったなり方でした。

文筆家、いわゆる物書きたちは他の仕事を持っていることが珍しくありませんでした。

いわゆる新聞記者、雑誌編集者、教師、翻訳家など別の仕事を持ちながら作品を書くケースです。

例えば、小説『浮雲』などで名を残した二葉亭四迷はロシア語翻訳などに関わり、大阪朝日新聞社に入社。同社ではロシア関係の資料調査や翻訳なども担当しています。

尾崎紅葉も、山田美妙らと硯友社を結成。同人誌『我楽多文庫』を刊行して、作品が評価されると読売新聞社へ入り、新聞小説を書いていきました。

つまり、

同人誌などで作品を発表する場を得る

編集者や先輩作家とつながる

雑誌・新聞に掲載される

うまくいけば新聞社などから安定した仕事を得る

というのが、一つの成功ルートだったのです。

「風、薫る」ではシマケンが「小説だけを書いて生きる」のではなく、批評を書いていた展開がありました。

ある意味、それがこの時代のリアルであったと言えるでしょう。

尾崎紅葉。東京帝国大学を中退して小説家の道を歩んだ。

「書けば儲かる」わけではない…樋口一葉の厳しい現実

当然、文筆家の世界も競争の激しいところですから、甘い考えは通用しません。

樋口一葉の生活の苦しさがその例でしょう。

一葉は歌塾「萩の舎」で学んでいました。しかし父の死後、長女である一葉が一家の家計を背負うことになります。

姉弟子・田辺花圃が小説で原稿料を得たことを知ると、自分も小説を書いて家計を支えよう」と考えました。

一葉は新聞記者・半井桃水に師事し、明治25(1892)年に雑誌『武蔵野』で『闇桜』を発表します。

ところが「作品が載る」ことと「生活できる」ことは別問題です。

文学者・馬場孤蝶の回想によると明治後半には有名作家なら原稿用紙1枚1円ほど尾崎紅葉は1枚2円50銭という噂さえあった時代です。

一方、一葉の原稿料は1枚30銭ほど(妹の証言)だったとされています。つまり原稿料は作家の知名度、出版社、作品によって大きく違いました。

当時のそば・うどんは約1銭2厘、普通郵便の書状は2銭程度でした。一葉の「1枚30銭」という数字が正しいとすれば、そば約25杯分です。

一見すると悪くなさそう…と思いますよね?しかし毎日のように原稿注文が舞い込むわけではないのです。

原稿が必ず採用されるわけではない。

掲載されたとしても原稿料が安い。

そもそも原稿料が出ない場合もある。

いつ次の仕事が来るかわからない…

当然、一家を養うための「固定給」となるはずがありません。

明治の作家は、才能だけではなく「原稿を載せてくれる場所」を確保することそのものが仕事だったのです。

樋口一葉。着るものにも困る生活の中で次々と傑作を生み出した。

売れっ子作家はは話が変わる!超売れっ子・夏目漱石はいくら稼いだ?

同じ明治時代でも、スター作家・夏目漱石となると事態は一変します。

明治39(1906)年、漱石が高浜虚子へ出した領収書を見てみましょう。

吾輩は猫である』第10回の原稿料が38円50銭。

坊っちゃん』が148円。

合計で186円50銭です。

ただし、これは1か月の定収入ではなく、二つの作品に対する稿料です。

明治40(1907)年、漱石は東京帝国大学の教授を辞職。月給200円で朝日新聞社へ入社します。

もちろん、漱石のケースが一般的な「明治の作家の給料」ではありません。

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』ですでに人気作家となっていた漱石だからこその待遇なのです。

ざっと見れば

無名時代=原稿が載るかどうかも分からない

売れ始める=雑誌から稿料が入る

超売れっ子=新聞社が専属作家として固定給で囲い込む

という、とてつもなく大きな格差があったわけです。

漱石自身も後年、「原稿料で衣食している」と記していますが、そこまで到達できる文筆家は、ごく一握りでした。

夏目漱石。近現代の文芸史を代表する小説家の1人となった。

『ばけばけ』のモデル・小泉八雲も「作家一本」ではなかった

ここで朝ドラ『ばけばけ』にも少し触れておきましょう。

レフカダ・ヘブンのモデルとなったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も文筆家でした。

しかし日本へ来た小泉八雲を経済的に支えた大きな柱の一つは、学校教師としての給料です。

松江では英語教師として月給約100円、熊本の第五高等中学校へ移ると月給200円という破格の待遇でした。

つまり八雲でさえ、

教師をする→生活を安定させる→そのかたわら日本文化を取材し、文章を書く

という働き方だったわけです。

また、その文学には妻・セツが語った日本の昔話や怪談も大きな役割を果たします。

『ばけばけ』を「作家の成功物語」とだけ見ると見落としてしまいますが、実際の文筆活動は、教師・取材者・翻訳者・語り手など、多くの仕事や人間関係によって支えられていたのです。

小泉八雲。妻・セツと二人三脚で著作を残し、日本の怪談を後世に伝えた。

朝ドラ『ブラッサム』のモデル・宇野千代の時代には「懸賞小説」という入口もあった?

『風、薫る』の次に放送される朝ドラが、『ブラッサム』です。

主人公・葉野珠のモデルは作家の宇野千代

宇野千代は明治30(1897)年生まれですから、実際に作家として飛躍するのは明治ではなく大正時代です。

大正10(1921)年、千代が書いた短編『脂粉の顔』が『時事新報』の懸賞小説で入選。見事に一等を獲得して賞金200円を手にしました。千代はこれをきっかけに本格的な作家生活へ入っていきます。

一葉の時代には、師匠を探し、雑誌編集者とのつながりを作り、作品を売り込むことが重要でした。

それから約30年。

新聞や雑誌の発達によって、宇野千代のように「懸賞に応募して新人が世に出る」ルートも存在感を増していったのです。

いわゆる現代の新人文学賞へと続く仕組みが、少しずつ整ってきた時代でした。

宇野千代。懸賞小説を皮切りに小説家の道を歩んだ。

明治の文筆家はつらいよ…しかしそれでも彼らは書いた!

明治の文筆家というと、私たちはついつい「文豪」という完成された姿を想像してしまいます。

夏目漱石、樋口一葉、尾崎紅葉、二葉亭四迷、小泉八雲

しかし彼らにも当然、まだ何者でもなかった時代がありました。

原稿をどこかに持ち込む。

師匠を探す。

同人誌を作る。

新聞記者になる。

教師をする。

翻訳をする。

そして、仕事の合間に小説を書く。

作品が売れなければ、次の収入がいつ来るかもわかりません。

だからこそ、『風、薫る』でシマケンの苦闘する姿は、単なるドラマ上の設定以上に、近代日本で「書くことを職業にする」難しさを感じさせます。

『風、薫る』『ばけばけ』『ブラッサム』と、朝ドラを横断してみると、近代日本とは、「職業として文章を書く人」が少しずつ生まれていった時代でもあったことがわかります。

原稿料は安い。仕事は不安定。将来もわからない。

それでも書く。

明治・大正の文筆家は、実につらい。それでも彼らは、筆を置かなかったのでした。

二葉亭四迷。一時陸軍士官学校を志したこともあった。

※参考文献・参考サイト

「夏目漱石」国立国会図書館HP 「尾崎紅葉」国立国会図書館HP 「宇野千代」国立国会図書館HP 高浜虚子『漱石氏と私』青空文庫HP 内田魯庵『二葉亭四迷の一生』青空文庫HP 浅井清・市古夏生ら監修『作家の原稿料』八木書店 2015年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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