【豊臣兄弟!】千利休と羽柴秀次が切腹…2人の介錯を務め「首」を斬った武将・雀部重政の悲劇的な末路
古来、武士たちはその最期に「切腹」を選ぶことが少なくありませんでした。
しかし、腹を切ったからといってすぐに絶命できるわけではなく、苦痛を長引かせないために「介錯(かいしゃく)」を頼むケースが大半だったようです。
(※介錯:本来は介助する意味でしたが、武士の切腹においては、苦しまないよう一思いに首を斬ってトドメを刺す役割を指すようになりました)
大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目される、豊臣秀吉・秀長兄弟の天下取り。しかし、秀長の死を境に豊臣政権では粛清が相次ぎ、悲惨な事件が次々と引き起こされます。
今回は、その悲劇の渦中に巻き込まれ、あろうことか自らの手で「師匠」と「主君」の介錯を務めることになった戦国武将・雀部重政(ささべ しげまさ)をご紹介します。
果たして彼はどんな人物で、なぜそのような数奇な生涯をたどることになったのでしょうか。
雀部淡路守、京都瑞泉寺収蔵 絹本著色『豊臣秀次像』(Wikipediaより)
三好康長→羽柴秀次に仕える雀部重政は永禄2年(1559年)、雀部伊豆守(いずのかみ)の次男として誕生しました。
伊豆守は阿波国を本拠地に畿内を牛耳っていた三好長慶に仕え、2万8千石の所領を有していたと言います。かなり裕福な生活を送っていたことでしょう。
重政は兄の雀部六左衛門(ろくざえもん)とともに成長し、元服後は三好康長に仕えて玄蕃允(げんばのじょう)と呼ばれました。
やがて天正11年(1583年)ごろに康長が宮部吉継(秀吉の甥で姉ともの長男)を養子に迎えると、重政は吉継改め三好信吉(後の羽柴秀次)に仕えます。
秀吉の天下一統を見届ける重政は秀次の身辺を警護する馬廻組頭に抜擢され、尾張国に2千石の所領を賜りました。
天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いにも従軍し、窮地に陥った秀次を懸命に守り抜いたことでしょう。
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その後も天正13年(1585年)の紀州征伐・四国征伐に従軍し、秀次の身辺警護を務めました。
※天正15年(1587年)の九州征伐では秀次が京都の留守居役を務めているため、出陣はしていません。
そして天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍して秀吉の天下一統を見届けます。
同年10月には従五位下・淡路守の官位を賜り、また豊臣の姓を許されました。この辺りが、重政にとって人生のピークだったと言えるでしょう。
秀次に殉じた悲劇の最期重政の運命は、天正19年(1591年)1月に羽柴秀長(小一郎)が世を去ったことがキッカケで暗転していきます。
天正19年(1591年)2月28日に千利休が切腹を命じられた際、重政はその最期を見届ける役を命じられました。
一説には重政が介錯を務めたと言われ、自分の手で師匠の命を絶ち斬るのは、想像を絶する苦痛だったことでしょう。
やがて秀吉に実子の拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生すると、それまで後継者候補となっていた秀次の立場が危うくなります。
そして文禄4年(1595年)7月15日、秀次は謀叛の濡れ衣を着せられて切腹を余儀なくされてしまいました。
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無実ゆえの切腹!?妻子ら30余人が公開処刑、謎に包まれた戦国武将・豊臣秀次の切腹の真相重政は秀次の介錯を務め、その最期を見届けた後に殉死します。享年37歳。我が手で師匠を斬り、また主君を斬らねばならない悲劇的な最期でした。
秀次の介錯に用いられた南都住金房兵衛尉政次の銘刀は、兄の六左衛門が引き取り、その子孫によって受け継がれたそうです。現在は大阪城天守閣の博物館で保管されているといいます。
重政の息子であった雀部重良(しげよし)は外祖父(重政の舅)に当たる佐野綱正が養育しました。やがて徳川家康に仕えて小姓となり、後に旗本として近江国に8百石を賜ったということです。
終わりに今回は雀部重政の生涯をたどってきました。戒名は大雄誓義居士(だいゆうせいぎこじ)、墓所は知恩院塔頭如意庵にあり、今も人々を見守っています。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」には、雀部重政が登場するのでしょうか。今後も楽しみに見守りたいと思います。
※参考文献:
阿部猛ら編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年8月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

