蜜月から泥沼の追放劇へ…なぜ織田信長と足利義昭の『二重政治』は破綻したのか?
桶狭間の「その先」
室町幕府最後の将軍である足利義昭と織田信長の関係について、日本史学の新しい見解も踏まえながらおさらいしてみましょう。
信長が天下への道を進むうえで、大きな転機となったのが一五六〇年の桶狭間の戦いです。駿河の大名・今川義元を破ったことで、信長の名は一気に広まりました。
一五六五年、近江にいた足利義昭から信長へ支援を求める知らせが届きました。
信長は義昭を支持する意思を示したものの、すぐには動けませんでした。当時の信長は、美濃の斎藤龍興と戦っていたからです。
二人の距離が接近し始めたのは、この時期からです。
一方、このあたりから信長が公的文書の朱印に使い始めたのが天下布武です。
これだけで全国統一を具体的に計画していたとは言えませんが、天下人を意識する政治姿勢が見え始めた時期ではありました。
義昭を将軍に一五六八年七月、信長は岐阜城下で義昭と対面しました。そして九月に南近江の六角氏を破ると、義昭を奉じて京都へ向かいます。
当時の京都では三好三人衆が足利義栄を将軍として擁立していましたが、十月には信長軍に追われます。こうして義昭は室町幕府第十五代将軍となりました。
ただし、信長が義昭へ政治の主導権をすべて渡したわけではありません。実際には信長の影響力が強く、将軍と信長による二重の政治体制が生まれました。
戦国時代におけるこうした二重の権力体制の構築は信長のオリジナルではなく、三好長慶がパイオニアだったとされています。
信長は義昭の就任にあたり、前例に従うことなどを求める殿中御掟も定めました。ただしこれは、最初から義昭を完全に押さえつけようとしたものではありませんでした。
一五六九年、義昭を再び三好三人衆が攻撃すると、信長は軍勢を送り込んで撃退。さらに義昭のために二条城を築き、将軍の政治基盤を整えていきます。
ここまでは、まさに二人の蜜月期間だったと言えるでしょう。
将軍を追放ところが一五七〇年になると、信長の周囲で反抗勢力が次々と動き始めました。朝倉義景と浅井長政、三好三人衆、長島の一向宗門徒などが相次いで信長と対立したのです。
こうした反信長勢力の拡大には、義昭がひそかに働きかけていたという説があります。信長への感謝が、自分の将軍としての権威を十分に尊重しないことへの不満へ変化したと考えられているのです。
ただし、すべてを義昭の働きかけだけで説明することはできません。
当時の信長は経済政策も推し進めていました。道路や河川に設けられていた関所を廃止し、伊勢湾の交易をおさえ、自治都市だった堺には代官を置いて矢銭を求めたのです。
信長は、四国から大阪、京都へつながる交易圏へ影響力を広げていました。三好政権が持っていた畿内の政治的、経済的な基盤を奪ったともいえる構図でした。
こうして見ていくと、戦国大名にとって信長打倒は領国を広げる機会でもあり、天下人を目指すなら避けては通れないチャンスでもあったわけです。将軍からの呼びかけに応じる理由はそれぞれに存在していました。
義昭の呼びかけが直接的な原因ではなく、各人の利害が一致する状況だったのでしょう。
一五七二年には信長と義昭の対立がさらに激しくなります。九月には信長が異見十七カ条を公表し、義昭の朝廷への態度や遊興、賄賂などを厳しく批判。
このあたりから、信長は義昭との関係を政治的に切り離していくことを考えていたのでしょう。
正親町天皇は信長と義昭に和睦を命じましたが、関係は修復しませんでした。七月、義昭が槙島城で挙兵すると信長はこれを破り、義昭を京都から追放します。
一五六八年に義昭を将軍として京都へ連れてきてから、その将軍を京都から追い出すまでの期間はわずか五年。
義昭は河内へ追われ、その後は備後へ移って毛利輝元を頼ります。晩年には豊臣秀吉から一万石を与えられ、一五九七年に死去しました。
こうして義昭の追放によって、室町幕府は終わりを迎えます。
ここまでの経緯と結末を見ると、あたかも最初から最後まで信長が義昭を利用したかのように見えます。
しかし実際の政治体制の二重権力構造の実態はそうシンプルに割り切れるものでもありません。二人はそれぞれに役割と思惑があったのです。義昭の将軍としての権威も、決して消滅はしていませんでした。
ただ信長にとって義昭は、最初は京都へ入るための重要な政治的存在でしたが、最後には自らの政権を妨げる存在となったため、追放という形で対立を解消せざるを得なかったのでしょう。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia
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