【豊臣兄弟!】毒蛇も恐れて逃げ出す猛将!長宗我部元親の嫡男・信親と共に討死した福留儀重の生涯

Japaaan

【豊臣兄弟!】毒蛇も恐れて逃げ出す猛将!長宗我部元親の嫡男・信親と共に討死した福留儀重の生涯

姫若子から鬼若子へと変貌し、四国統一の野望に邁進していた長宗我部元親。その傍らには、多くの豪傑たちが勢ぞろいし、元親を支えていました。

今回はそんな一人である福留儀重(ふくどめ よししげ/のりしげ)を紹介。果たしてどんな人物で、どんな活躍をしたのでしょうか。

「荒斬り」と恐れられた猛将の子

福留儀重は天文18年(1549年)、土佐田辺島城主(たなべじまじょう。高知県高知市)を務める福留儀実(よしざね。後に親政、飛騨守)の長男として誕生しました。弟には福留民部(みんぶ)・福留平兵衛(へいべゑ)・福留右馬之丞(うまのじょう)・福留新九郎(しんくろう)らがいます。

父は長宗我部国親(くにちか。元親父)の代から仕え、合戦で度々武勲を立てたそうです。

生涯21回も感状を受け、永禄6年(1563年)には敵対する安芸国虎(あき くにとら)の軍勢を撃退しました。

その合戦では20人(『土佐物語』)とも37人(『元親記』)とも言われる敵を斬り殺したため、人々は「福留の荒斬り」と呼んで恐れたそうです。

国親からは厚く信頼され、「親」の偏諱を賜わって福留親政と改名。元親の嫡男である長宗我部信親の傳役を託すほど重用されました。

しかし天正5年(1577年)に討死してしまい、儀重が家督を継ぐこととなります。

毒蛇も大蛇も恐れた?猛将ぶり

儀重もまた父に劣らぬ猛将で、官途名である隼人佐(はやとのすけ)から、福留隼人の名を領内外に轟かせました。

土佐の童謡に♪蛇もハミもそちよれ、隼人様のお通りじゃ♪という文句があり、これは毒蛇も大蛇も、隼人(儀重)の名を聞いただけで道を譲るほど恐れていたということでしょう。

天正13年(1585年)に羽柴秀長(小一郎)が四国征伐に乗り出すと、元親の家臣として参陣するも、元親が降伏したため鉾を収めます。

元親は土佐一国を安堵されたものの、羽柴家臣として合戦に動員され、天正14年(1586年)の九州征伐にも従軍しました。そして天正14年12月12日(1587年1月20日)、儀重は豊後戸次川の合戦で長宗我部信親らと共に討死してしまったのです。享年39歳。

仙石秀久らによる無謀な作戦を受け入れさせられ、死を覚悟しての最期だったと言います。またこの戦闘で弟の福留民部(36歳)も討死しました(他の弟たちは既に陣没しています)。

エピローグ

かくして戦場に散った福留儀重でしたが、その遺徳を慕う人々は田辺島城の跡地に隼人神社を創建し、父親の福留親政ともども御祭神としてお祀りしました。

武運長久のご利益はもちろん、禁酒や断酒のご利益もあると言われています。それは儀重が生前、元親が自ら発した禁酒令を破ったことを諫めるため、元親が隠していた酒樽を叩き割ったエピソードに由来するそうです。

武勇にすぐれるだけでなく、主君に忖度しない剛胆と忠義は、土佐人の鑑として今も人々に慕われていることでしょう。

福留儀重データ 生没:天文18年(1549年)生~天正14年12月12日(1587年1月20日)没 両親:福留親政/生母不詳 兄弟:儀重・民部・平兵衛・右馬之丞・新九郎ら 妻妾:不詳 子女:福留政親(半右衛門) 身分:土佐田辺島城主 家紋:六片喰(むつかたばみ) 主君:長宗我部元親・長宗我部信親 通称:隼人佐(官途名) 死因:討死(豊後戸次川の戦い) 系図:……福留房吉-福留親政-福留儀重-福留政親-福留親茂…… 終わりに

今回は長宗我部元親に仕えて武勇を奮った福留儀重の生涯をたどってきました。果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、その武勇を魅せてくれるのでしょうか。

登場が確定している信親と共に討死するため、もしかしたら登場するかもしれませんね。

※参考文献:

松田直則ら編『土佐の山城 山城50選と発掘された23城跡』ハーベスト出版、2019年12月 山本大『人物叢書 長宗我部元親 新装版』吉川弘文館、1987年12月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「【豊臣兄弟!】毒蛇も恐れて逃げ出す猛将!長宗我部元親の嫡男・信親と共に討死した福留儀重の生涯」のページです。デイリーニュースオンラインは、福留親政、福留民部、福留新九郎、福留平兵衛、福留右馬之丞、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る