史料に名前がない!“扇の的”の伝説的武将・那須与一は実在せず「複数人の合体」だった?

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史料に名前がない!“扇の的”の伝説的武将・那須与一は実在せず「複数人の合体」だった?

屋島の戦いの英雄

源平合戦の英雄として、今もよく知られている武将が那須与一(なすのよいち)です。『平家物語』では、屋島の戦いで平氏方の女房が小舟に立てた扇を、与一が見事に射落とします。

『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」(Wikipediaより)

この場面は『平家物語』の中でも特に有名な場面です。敵味方から賞賛された与一は、その後、戦功によって武蔵国太田荘などの荘園を与えられたと伝えられています。

ところが、ここで気になる問題があります。那須与一という武将は、本当に実在したのでしょうか。

実は、同時代の一次史料には、その名前が確認できません。

そこで歴史学では、実在性を疑う見方や、那須氏に属した複数の武将の活躍が、後世に一人の英雄へまとめられたとする説があります。本稿ではそうした説についてご紹介しましょう。

与一という名前

そもそも「与一」は、本名ではなく通称だとされています。「十余る一」で本来は十一男を意味する呼び方で、本名は宗隆、那須資隆の十一男だったという伝承が残っています。

兄たちの多くが平氏側についたため家督を継ぎ、相続後は資隆と名乗ったという言い伝えも。しかし、その後は地位を捨てて出家したとも伝えられており、もともと不明点も多い存在でした。

那須与一の肖像(Wikipediaより)

さらに、「与一」という呼び名は那須氏だけのものではありません。佐奈田義忠や浅利義遠など、同時代人にも与一を称した人物がいました。

この三人を合わせて「源氏の三与一」と呼ぶこともありますが、これは17世紀以降に広く定着したものと考えられており、比較的新しいものなのです。

つまり、現在よく知られている「那須与一」という名前そのものにも、後世の伝承が入り込んでいる可能性があります。

実在か、非実在か

那須与一の伝説を考えるうえで、特に重要なのが『吾妻鏡』です。これは鎌倉幕府が編さんした重要な歴史史料で、先述した屋島の戦いについても記録されています。

ところが、その詳しい記録の中に、那須与一の名前は出てきません。「扇の的」の話もありません。

『平家物語』では、与一は基本的に屋島の場面だけにかろうじて登場しているだけ。一ノ谷や壇ノ浦など、ほかの大きな戦いには名前すら出てきません。

このため、屋島での英雄的な活躍が、後世に面白いストーリーとしてとして大きく膨らまされた可能性が指摘されています。

『平家物語』が琵琶法師らによって語られるうちに、実在した武将たちの断片的な活躍の記録が一人の英雄へ集められた、と考えることもできるでしょう。

道の駅「那須与一の郷」の与一像

京都の即成院には与一の墓があります。そこでは、那須与一は戦後に病を治して屋島へ向かい、出家して34歳で亡くなったという伝承も残っています。

しかし、この寺の縁起も室町時代に形成された「与一伝承」である可能性が高いとされます。

もちろん、史料に名前がないからといって、実在しなかったと断定できるわけではありません。ただ、華やかな扇の的の物語と、同時代史料に残る情報との間には、大きな差があります。

那須与一が実在した一人の武将だったのか、それとも複数の武将の記憶が一人の英雄にまとめられたのか。少なくとも、現在知られている「伝説の那須与一」が、そのまま史実だったとは言い切れないのです。

参考資料:日本史探求倶楽部『日本史裏話』株式会社アントレックス、2026年
画像:PhotoAC,Wikipedia

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