『豊臣兄弟!』「織田家になど生まれなければ」信雄の暴言は単なる創作か?壮絶な半生と父への複雑な思い
「織田家になど生まれなければよかった」。『豊臣兄弟!』第35回で織田信雄(山脇辰哉)が吐き捨てたこの言葉。
これは果たして単なる創作なのでしょうか。
幼くして北畠家へ送られ、やがてその一族の粛清にも関わった信雄の人生を振り返ると、そこには定説とは異なる意外な人物像が浮かび上がるのです。
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「でも父よりはましか。寺の中で焼け死ぬなど惨めの極みじゃ。わしはああはならぬ」。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第35回「秀長誕生」で、羽柴秀吉(池松壮亮)との和睦が実現した際、織田信雄が言い放った言葉です。
秀吉との和睦に出向いた信雄(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
戦国時代をダイナミックに描く波乱万丈のエンターテインメントである『豊臣兄弟!』だけに、場面場面には多くのフィクションが取り入れられています。
しかし、この信雄の言葉には、ある意味で歴史の真実が隠されているのではないでしょうか。
とくに、「でも父よりはましか。寺の中で焼け死ぬなど惨めの極みじゃ。わしはああはならぬ」
という言葉には、羽柴秀長(仲野太賀)が思わず怒りを爆発させました。
本能寺での織田信長(小栗旬)の最期を「無駄死」とも受け取れるような発言に、秀長が激怒したのです。
信雄といえば、これまで「軽率」「暗愚」「無能」など、武将としてはマイナスの評価を受けることが少なくありませんでした。『豊臣兄弟!』でも、どちらかといえばそのようなイメージで描かれているのは間違いないでしょう。
たしかに信雄には、大きな失敗がありました。
1579年(天正7年)9月、信長に無断で伊賀へ侵攻して大敗。その際に多くの家臣を失い、信長から激しく叱責されています。
信長が信雄に送った叱責の書状では、伊賀での敗北を「天の道理に背く」行為と厳しく批判し、さらに家臣を討ち死にさせたことについても「言語道断」としています。
そして命令通りに上方へ出陣していれば「天下のためになり、父への孝行、兄信忠への思いやりになる」と述べ、最後には「親子の縁を切るようなことになると思え」とまで言い渡しました。
ところが、その後の信雄の人生を追ってみると、少し不思議なことに気づきます。
1580年(天正8年)には兄・信忠(小関裕太)とともに安土へ赴き、翌1581年(天正9年)の京都御馬揃えでは、信忠に次いで30騎を率いています。さらに同年、信長の命による二度目の伊賀攻めでは総大将を務めました。
信雄の伊賀への無断侵攻は、彼の軽率さや愚かさを示す代表的な失敗として語られているのですが、それにしてはあまりにも早く信長の怒りが解けており、さらにその後も大切に扱われているのです。
つまり、信長は一度の失敗だけで信雄を見限ったわけではありません。むしろ、厳しく叱責しながらも、その後も重要な役割を与えていたのです。
ただ、『豊臣兄弟!』で描かれたように、信雄は何かしらの不満を信長に対して抱いていたとも考えられます。
では、その理由は何だったのでしょうか。ここからは史実に筆者の考察を交えながら、紐解いていきたいと思います。
信雄の人生は決して平坦ではなかったあまり語られることはありませんが、信長には多くの子どもがいました。伝えられている系譜を合計すると、男子・女子を合わせて20人を超える子どもがいたとされます。
そのなかで歴史の表舞台に登場するのが、嫡男・信忠、次男とされる信雄、三男とされる信孝(結木滉星)、そして秀吉の養子となった秀勝(柊木陽太)らです。
信雄は1558年(永禄元年)生まれ。生母は生駒吉乃(久菴桂昌)とする説が広く知られています。
同じ年に生まれた信孝との出生順には異説があります。これは信孝の母の坂氏が吉乃と比べて身分的に低かったことで、信雄のほうが重要な立場に置かれていたとも考えられるのです。
それはさておき、信雄の少年時代を見ていくと、嫡男の信忠とはかなり異なる人生を歩んでいたことがわかります。
以下、簡単な年表で本能寺の変までの二人の歩みを簡単に追ってみましょう。
●信忠:1557年/尾張国に生まれる。
〇信雄:1558年/尾張国に生まれる。
〇信雄:1569年/北畠具房の養嗣子となり、伊勢へ入る。
●信忠:1572年/元服。
〇信雄:1572年/元服し、北畠具豊を名乗る。
●信忠:1570年代/織田軍の主要な戦いに参加し、織田家後継者としての地位を固めていく。
〇信雄:1574年/長島攻めなどに参加。
●信忠:1575年/織田家の後継者としての地位をさらに確立。
〇信雄:1575年/北畠家の家督を継ぎ、信意と改名。伊勢を中心とする軍事・支配を担う。
●信忠:1577~78年/雑賀攻め、信貴山城の戦い、石山本願寺攻めなどに従軍。
〇信雄:1577~78年/紀州・石山方面などの戦いに参加。
〇信雄:1579年/信長に無断で伊賀へ侵攻し、大敗。
●信忠:1581年/京都御馬揃えに参加。
〇信雄:1581年/京都御馬揃えに参加。同年、信長の命による伊賀攻めで総大将を務める。
●信忠:1582年/甲州征伐で総大将を務め、本能寺の変で死去。
〇信雄:1582年/甲州征伐に従軍。本能寺の変後、信長の遺児らを保護するなどの動きを見せる。
こうして見ると、信雄は信忠の後を追うように、出世し、軍事経験を積んでいったことがわかります。
しかし、二人には大きな違いがありました。
それは、信忠が織田家の後継者として父・信長のもとで育てられたのに対し、信雄は幼くして北畠家の養嗣子となり、伊勢へ送り込まれたことです。
幼くして北畠家へ、そして岳父・北畠具教の粛清へ1569年(永禄12年)、信長は伊勢の名門・北畠氏と戦い、その和睦条件の一つとして、幼い信雄を北畠具房の養嗣子としました。
信雄は北畠家の後継者として伊勢へ入り、やがて北畠家の家督を継ぎます。しかし、これは決して穏やかな人生の始まりではありませんでした。
1576年(天正4年)、信長の意向を受けた信雄は、岳父である北畠具教や北畠一族の粛清に関わります。幼いころから自分を受け入れた北畠家の人々を、自らの手で排除していかなければならなかったのです。
しかも、嫡男・秀雄の母である正妻の千代御前(具教の娘)は、父や一族が殺されたことを知り自害してしまいました。
もちろん、戦国時代において政略結婚や一族の粛清は決して珍しいことではありません。しかし、幼いころから織田家と北畠家の間に置かれた信雄の人生が、精神的にも政治的にも過酷なものであった可能性は考えてよいでしょう。
信雄に害された北畠具教/伊勢吉田文庫蔵(Wikipedia)
一方、信忠はどうだったでしょうか。信忠は信長の後継者として父のもとに置かれ、織田家の軍事・政治を学びながら、徐々に家督を継ぐための道を歩んでいきました。
その生い立ちは、「敵対していた家の養子となり、その家を内側から継ぎ、やがてその一族の粛清に関わる」という、信雄のような過酷な立場ではありませんでした。
そう考えると、今回『豊臣兄弟!』で信雄が口にした、「織田家になど生まれなければよかった」という言葉は、単なるドラマ上の創作には見えなくなってくるのです。
このような史実を鑑みると、織田信雄を「暗愚な武将」の一言で片づけるのは、あまりにも簡単すぎるのではないでしょうか。
偉大な父・信長の名を背負い、おそらくはその期待と重圧のなかで生きた信雄。今回の一言は、そんな彼の心の内から湧き出た絶唱とも思われるのです。
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