【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の劇中、墨俣の築城作戦で初登場以来、永年の盟友として尽力してきた蜂須賀正勝(高橋努)が、そろそろ退場してしまいます(天正14・1586年5月22日没)。
視聴者としては残念な限りですが、正勝には嫡男がおり、秀吉(池松壮亮)の天下獲りを支え続けました。
今回はそんな正勝の嫡男・蜂須賀家政(はちすか いえまさ)を紹介。果たしてどんな活躍をしたのでしょうか。
高橋努が演じる蜂須賀正勝。大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより
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蜂須賀家政は永禄元年(1558年)に正勝とその正室である松(まつ。大匠院)との間に誕生しました。
きょうだいには異父兄の蜂須賀長存(ながあり)や姉妹の奈良姫(賀島長昌室)・糸姫(黒田長政室)らがいます。
生まれ故郷は尾張国丹羽郡宮後村(愛知県江南市)の宮後城(みやうしろじょう)……と言えば聞こえはいいですが、その実態は正勝が住んでいた屋敷でした。正勝が出世したから城として扱われるようになったのが実際のところです。
とは言え、それでも城は城だし、城主の息子には変わりありません。元服して彦右衛門(ひこゑもん)と称するようになった家政は、はじめ織田信長(小栗旬)に仕えました。
元亀元年(1570年)の姉川合戦(対 浅井長政・朝倉景健)で初陣を飾り、やがて秀吉の配下につけられ、天正3年(1575年)には秀吉の親衛隊である黄母衣衆(きほろしゅう)に加えられます。また同年の長篠合戦(対 武田勝頼)でも武功を立てました。
その後も父と共に秀吉の中国攻めに従軍し、天正6年(1578年)には播磨広瀬城(兵庫県宍粟市)では敵将の宇野重清(うの しげきよ)を討ち取ります。
また天正7年(1579年)には窮地に陥っていた伯耆羽衣石城(うえしじょう。鳥取県湯梨浜町)から城主の南条元続(なんじょう もとつぐ)を救出する戦功を立て、秀吉から激賞されました。
やがて天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死を遂げると、秀吉の中国大返しに従い、山崎合戦(対 明智光秀)でも奮戦しました。
父から阿波一国を譲られる
信長亡き後の織田政権継承戦争でも家政は連戦し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦(対 柴田勝家)や天正12年(1584年)の根来衆・雑賀衆鎮圧でも武功を重ねます。
これらの功績により、家政は播磨国佐用郡(兵庫県西部)に知行3千石を与えられました。
ここまで武辺の働きが目立つ家政ですが、一方で外交でも手腕を発揮しています。例えば天正10~13年(1582~1585年)にかけて父や黒田官兵衛(倉悠貴)らと共に、毛利氏と領土交渉を担当していました。
毛利側の吉川元春(こばやし元樹)・小早川隆景(山本浩司)から家政に対して秀吉へのとりなしを依頼する書状も確認されており、ひとかどの人物として認識されていたことがわかります。後に「古ダヌキ(または古ギツネ)」と呼ばれる老獪さを、若い内から発揮したことでしょう。
続く天正13年(1585年)の四国攻め(対 長宗我部元親)では、阿波木津城(徳島県鳴門市)攻めや阿波一宮城(徳島県徳島市)攻めでも武功を立てました。
長宗我部元親(磯部寛之)が降伏した後の四国国分(くにわけ。所領の再配分)では、はじめ秀吉が阿波一国を父の正勝に与えようとします。
しかし正勝は自分がすでに高齢であること、また自分はあくまでも秀吉の側近として忠義を尽くしたいことを述べて、阿波一国を家政へ与えるよう頼みました。
そんな正勝の心意気をくんで、秀吉は家政に阿波一国を与えることにしたのです。かくして家政は天正14年(1586年)に阿波18万石の国持ち大名となり、また同時期に従五位下・阿波守に叙せられたのでした。
飴と鞭の阿波統治かくして阿波一国を与えられた家政ですが、実際には天正13年(1585年)時点から阿波一宮城の主となり、将来を見据えて領国経営に着手していたと言います。
まずは新たな拠点として徳島城を築き上げ、城下町の整備とともに領内の秩序回復や領民慰撫にも尽力しました。
四国攻めはもちろんのこと、それまで相次ぐ戦乱で疲弊していた人々の暮らしを守ることで、自らの勢力基盤を磐石にしたのです。
もちろんそれですぐにみんなが従った訳ではなく、自立心の強い山岳地域の土豪勢力は家政の統治に反発し、天正13年(1585年)の祖谷山一揆(いややまいっき)など武力蜂起も勃発しました。
家政は自ら出陣して鎮圧する一方で土豪勢力に対する調略も進め、飴と鞭を使い分けながら抵抗勢力を切り崩していきます。
先の話になりますが、最終的な一揆鎮圧は天正18年(1590年)。祖谷山地域が蜂須賀家に臣従し、武装を放棄したのは、元和3年(1617年)の刀狩りというしぶとさでした。
それでも家政は粘り強く一揆勢力と向かい合い、天正17年(1589年)には太閤検地を実施して兵農分離を推進していったのです。
また家政は領国経営の一環として、阿波九城(九つの支城)と駅路寺(えきろじ)の整備にも着手しました。
駅路寺とは街道沿いの寺院に所領を与える代わり、その収益で街道を行き交う人々に便宜(休憩宿泊・物資補給・緊急避難など)を与えることを命じた制度です。現代でいう道の駅でしょうか。
そうこうしていたら天正14年(1586年)に徳島城が完成しました。家政は領民に対して「城が完成した祝いに、思い切り羽目を外して踊れ」と命じたそうです。一説には、これが阿波踊りの始まりと言われています。
この年の5月22日、正勝はこの世を去ったのでした。粘り強く阿波国統治に臨む家政の姿を見て、安心していたのではないでしょうか。
次回【後編】に続きます
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石躍胤央他『徳島県の歴史』山川出版社、2007年6月 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年1月 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 四』新人物往来社、1986年7月 渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』草思社、2021年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

