『豊臣兄弟!』吉岡秀隆演じる千利休にとって茶室こそ戦場…美学が凝縮された「侘び茶」の世界とは
『豊臣兄弟!』で、豊臣秀吉(池松壮亮)や秀長(仲野太賀)を支える存在として描かれる千利休(吉岡秀隆)。織田信長(小栗旬)の葬儀から秀吉の関白就任まで、重要な場面でその姿を見せています。
そんな利休が大成した「わび茶」。その美学が凝縮された茶室とは、いったいどのような空間だったのでしょうか。
今回は、利休の理想を具現化したとされる茶室についてひも解きます。
千利休にとって茶室は「戦場」だった?
『豊臣兄弟!』第33回「北庄城の別れ」で、初登場した千利休(千宗易)。
そういえば、第33回「北庄城の別れ」で、秀吉による大徳寺での信長葬儀を口利きしたのも、利休という設定になっていました。
そして第36回「姫若子と鬼若子」では、関白就任に際して羽柴秀吉が前関白・近衛龍山(前野朋哉)の猶子となるための面会をお膳立てしたのも、また利休でした。
どうやら『豊臣兄弟!』において、利休はドラマ後半のキーパーソンとして位置付けられているようですね。
史実でも、豊臣秀長と千利休は豊臣政権の中枢で秀吉を支えた最重要人物でした。秀長は軍事や領国支配だけでなく諸大名との交渉を担い、利休は茶頭として、茶の湯を通じて大名や商人らとの人的なつながりを築いた人物だったのです。
秀吉や秀長が戦場に赴いたように、利休にも茶の湯という武器を存分に発揮する「戦場」がありました。
それが「茶室」だったのです。
狭い入口、静かな畳の空間、床の間に掛けられた一幅の書。そこには、利休が大成した「わび茶」の思想が凝縮されていました。
利休は、この茶室という「戦場」で、秀長の言う「公儀のことは秀長に、内々のことは宗易(千利休)に」という役割を担い、豊臣政権における人的なつながりを支える活躍をしていたのです。
そもそも茶室とは何なのか?では、利休の「戦場」ともいえる茶室とは、どのようなものなのでしょうか。
簡単に言えば、茶室は主人や亭主が茶を点て、客をもてなすための空間ということになります。
茶の湯のための専用空間は室町時代から発展したと考えられています。当初は書斎や居間などの一部を屏風などで囲い、茶席として利用していたようです。
そのため当時は、茶湯座敷、数寄屋(すきや)、囲(かこい)などと呼ばれており、「茶室」という言葉が一般化したのは、後の時代のこととされています。
侘び茶を大成した利休に対して、その祖とされる村田珠光。しかし、珠光が造ったとされる茶室は現存していません。
利休の高弟・山上宗二(やまのうえそうじ)は、『山上宗二記』のなかで、「珠光は四畳半、引拙は六畳敷なり」と記しています。
この記述から、珠光の時代に現在のような独立した茶室がどのような形で存在していたのかを具体的に知ることは難しいでしょう。
ただ、この頃から茶の湯のための空間が日常の生活空間とは異なる、非日常的な場として意識されていたことはうかがえます。
そしてその精神が、後の茶室へと受け継がれていったのは間違いないと思われます。
利休が生み出した「究極のわび」の空間千利休によって完成されたとされる茶室は、一般に茅葺(かやぶき)、黒木の柱、土壁などが風情を醸し出す草庵風で、そうした素材や意匠によって、独自の品格を感じさせます。
室内は、網代(あじろ)や簀子(すのこ)などを取り入れた変化のある天井を設けるなど、限られた空間のなかにもさまざまな工夫が凝らされていました。
四畳半の茶席では、床前の貴人畳が位の高い客の席とされ、主人が点前をする場所は道具畳と呼ばれました。
しかし実は、利休が造ったと伝えられる茶室で現存するものは、京都府大山崎町にある妙喜庵の国宝「待庵」のみです。この茶室は、わずか二畳という極限まで削ぎ落とされた空間によって、利休の「侘び」の美意識を今に伝えるものとして知られています。
利休の没後、その後継者や高弟たちも多くの茶室を造りました。
利休の孫・宗旦(そうたん)は、待庵よりもさらに狭い一畳台目の茶室を設けるなど、利休が追求した「侘び」の精神を後継者らしく、さらに極限まで突き詰めようとしました。
一方、古田織部・小堀遠州・織田有楽斎らの大名茶人たちは、それぞれの美意識を反映させながら、武家の格式を感じさせる書院風の茶室や、三畳前後の比較的ゆとりのある茶室などを造りました。
利休が目指した茶の湯の空間・茶室とは、いわば「市中の山居」でした。
都市のなかにありながら、自然のなかに身を置くような感覚を味わう。自然そのものを再現するのではなく、限られた空間のなかに自然の趣を感じさせる。
そこには、茶聖・利休の美学が細部にまで込められているのです。
また、利休が理想とした茶の湯には、禅の精神とも通じる「茶禅一味」という考え方があります。
利休に招かれた客は茶室のなかに身を置くことで、外の喧騒から離れ、一服の茶と向き合う。そこでは、茶室という限られた空間そのものが、日常とは異なる心持ちを生み出してくれます。
そう考えると、利休が完成させた茶室とは俗世から離れ、一服の茶と向き合い、素直な心持で人と人が向き合うための空間だったのではないでしょうか。
秀吉や秀長が天下をめぐって戦った一方で、千利休は茶室という小さな空間で、敵も味方も区別なく、そして身分の差も越えて人と人の心を結びつけました。
わずか二畳ほどの空間に、利休が込めた「侘び」の美学が、豊臣政権を支える原動力の一つとなったのです。
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