【豊臣兄弟!】半兵衛(菅田将暉)を号泣させた“あの赤ん坊”が成長!秀長の娘・末(池端杏慈)史実での正体とは?
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」第37話『秀長の国』。
秀吉(池松壮亮)は天下人への階段を上り詰め、とうとう関白に、秀長(仲野大賀)は四国平定の恩賞として、大和一国を与えられます。
そして、秀長と慶(吉岡里帆)の間に生まれた末(すえ)(池端杏慈)が登場。
秀長と慶の間に生まれたひとり娘。奔放な性格だが、心優しい少女。(「豊臣兄弟!」公式サイト)
というキャラクターです。
実は、秀長の正室や子どもに関しての史料は、極めて少ないのですが、最近は「豊臣兄弟!」の影響もあり少しずつ研究や整理が進んでいるそうです。
「末」は誕生したばかりのとき、死期が迫った竹中半兵衛(菅田将暉)に“生きる尊さ”を伝えた娘。
そんなドラマにおける「末」と、史実における秀長の娘たちを紹介します。
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秀長と慶の娘・末(池端杏慈)(NHK「豊臣兄弟!」公式「X 」より)
長岡城で竹中半兵衛と初対面した「末」「末」が印象的なかたちで「豊臣兄弟!」に登場したのは、第23話『さらば半兵衛』でのことでした。
謀反を起こした荒木村重(トータス松本)を説得しに、単身有岡城に出向いた小寺官兵衛(のちの黒田官兵衛/倉悠貴)は、囚われの身に。
戻らぬ官兵衛を、“裏切り者”と捉えた織田信長(小栗旬)は、羽柴家に人質として預けられていた官兵衛の息子・松寿丸(森優理斗)を「即座に始末せよ」と、容赦のない命令を下しました。
病に蝕まれ死期が迫る半兵衛は、「病死した子の亡骸を身代わりに松寿丸を救う」替玉作戦を小一郎に提案しました。
けれど、半兵衛は松寿丸を殺す気でした。
長浜城で松寿丸を守るため羽柴ファミリーは大奮闘するも捕獲され、「あわや!」となったとき突然産気づいた慶。
「裏切り者の子は見せしめに殺さねば」と冷酷だった半兵衛が、ものすごく動揺していましたね。
急な出産に騒然とするなか元気な女児が誕生、その子が「末」でした。
大騒動の中、秀長と慶に末が誕生。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X 」より)
「末」にかけがえのない命の尊さを教わった半兵衛喜びに溢れる小一郎は、その光景を複雑な表情で見守っていた半兵衛に「抱いてくだされ」と、「末」を渡しました。
「ど、どうすれば?」……戸惑いながら壊れ物のように小さい「末」を抱く半兵衛の姿、未だに忘れられません。
「末」を抱きながらボロボロボロと涙をこぼす半兵衛は「いかがされた?」と小一郎に問われ「わかりませぬ…」と大号泣しました。
己の命の灯が消えかけていることを察しているからこそ、手に抱いた生命の暖かさに「生きる」ことを感じて涙が溢れてきたのでしょう。
「傷付けられるかもしれない」のに、無防備に身を委ねる赤ん坊。
無条件に自分を信じ抱かれる小さな生命の尊さに、震えるような感動を覚える気持ちが痛いほど伝わってきましたね。
小一郎に「わたしの負けです…あの子を抱いた手で松寿丸を殺めることはできませぬ」と伝えました。
どこか、ほっとしているようでした。
負けたのに声を立てて大笑いつつも、重荷を下ろした表情だったのが印象的でした。
「末」の誕生は、小一郎・慶夫婦や羽柴家に大きな喜びを与えただけではありません。
「末」は生まれたことで、完兵衛と松寿丸の未来を救い、半兵衛に悔いのない旅立ちを導く大きな役割を果たしたのでした。
大号泣する半兵衛と末、初めての出会い。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X 」より)
史実に伝わる秀長の妻と子は秀長とその正室(史実では慈雲院/慈雲院芳室紹慶)については、冒頭でも述べたように非常に史料が少ないようです。
正室の出自は諸説あります。
ドラマの慶の名前は、高野山奥之院の石塔銘などに「慈雲院芳室紹慶」「芳室慈雲院紹慶大禅定尼」とあり、そこから「慶」ととったそうです。(近年の研究では「慈雲院」が正しいとされます)
秀長の子どもたちは、人数・生母・名前に異同はありますが、近年の説では以下のようになっています。
⚫︎長男・羽柴(木下)与一郎:
慈雲院との間の実子と推定。永禄11年(1568)頃生、天正10年(1582)頃早世(元服後)、死亡した原因などには諸説あるようです。
一次史料では存在の確認が難しいようですが、江戸時代の文献『森家先代実録』『高山公実録』『駒井日記』『多聞院日記』などで存在が伝えられるそうです。
ドラマでは、慶の連子でしたが、初陣で弓矢に射抜かれたことが原因で亡くなり、秀長夫妻に大きな打撃を与えました。
⚫︎長女(名前不詳):
天正15年(1587)頃の生まれで、母は側室・摂取院光秀(光秀尼)とする説が有力のようです。
天正19年に豊臣秀保(三好吉房と豊臣兄弟の姉・ともの子)と4〜5歳で仮の婚儀、文禄3年に正式に結婚しますが、その後の消息・没年・法名などはわかっていません。
⚫︎次女・おきく(大善院):
天正16年(1588)頃の生まれで、秀吉の養女として毛利秀元に嫁ぎ、慶長14年(1609)没しました。
生母は摂取院光秀とする説と、別の「きくの母」(名前不明の側室・妾)とする説があります。
⚫︎養女・岩(智勝院):
那古野氏の娘。与一郎の妻だったが夫が早世した後、秀長・慈雲院の養女になり、のち森忠政と再婚し継室に。忠政との間に2男3女をもうけました。
⚫︎養子・藤堂高吉(千丸):
丹羽長秀の三男で秀長の養子に。与一郎早世後に一時後継候補になるも、のち藤堂高虎の養子になりました。
⚫︎養嗣子・豊臣秀保
姉・ともの三男で、秀長家を継ぐも、文禄4年(1595)17歳頃で早世し、家は断絶しました。
「末」のモデルは長女か次女か
ドラマでは、秀長と慶の間に生まれたひとり娘として描かれている「末」。
モデルとする人物は、豊臣秀保に嫁ぐ長女なのか、秀吉の養女として毛利秀元に嫁ぐ次女なのか……どのように描かれていくのでしょうか。
第23話『さらば半兵衛』で娘が誕生したとき、喜びに震えながら「名をなんとしようか?」と言っていた小一郎。
どんな名を名付けるのかと思っていましたが、長女なのに「末」は意外な気がしていました。
「豊臣兄弟!」の時代考証を担当している、駿河台大学法学部教授・黒田基樹氏によると
また秀長と慈雲院殿のあいだには、それ以外にも、天正9年(1581)までに、「御末」という娘が生まれていたと推定されます。
このことが判明したのは、去年の夏頃で、ちょうどスタジオ見学に行った際に、お慶役の吉岡里帆さんが衣装合わせのために来られていて、直接、そのことをお伝えしました。吉岡さんは、小一郎との仲のありかたを作り上げるうえで、とても嬉しい事柄と、とても喜んでいました。
「御末」がドラマでどのように扱われるのか、これも楽しみにしていて下さい。
(駿河台大学 学部・研究科レポート 大河ドラマ「豊臣兄弟!」ワンポイト解説)
「御末」が由来する「末」だったのでしょうか。
秀長の娘・末(池端杏慈)と侍女・むぎ(信川清順)(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
「命の尊さ」を教えた「末」の今後は“奔放だけれど心優しい”という「末」は、両親の両方の要素を兼ね備えたような少女なのかもしれません。
ちなみに、「末」の側に控えている侍女・むぎは、2024年の大河ドラマ「光る君へ」のとき、まひろの弟・惟規の乳母のいと役だった信川清順さんです。“奔放な性格”という「末」に振り回されたりするのでしょうか。
この世に生を受けてすぐ、竹中半兵衛に「命の尊さ」を教え、戦国時代とはいっても子を殺める罪の深さを思い出させた「末」。
大和国を舞台に、周囲の人々にどのような影響を与えていくのか、楽しみです。
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・『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』
(角川選書)黒田基樹
・『羽柴秀長の生涯』(平凡社新書)黒田基樹
・『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中公新書)和田裕弘
・駿河台大学 学部・研究科レポート
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