『豊臣兄弟!』秀次(山田涼介)事件が招いた残酷な結末…羽田正親(平埜生成)の非業の死、その真相に迫る (2/2ページ)
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謎の多い羽田正親、その前半生とは
羽田正親(平埜生成)の生年ははっきりしていません。また、その名も『武家事紀』や『武功夜話』などでは「刎田六蔵(はねだろくぞう)」と記されています。
生まれは近江国上羽田村で、『武家事紀』によると、1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀長の配下として桑山重晴とともに賤ヶ岳砦を守ったとされます。
しかし、正親が史料に初めて登場するのは、1585年(天正13年)5月のことで、「羽田忠兵衛(忠右衛門尉)」という名で確認できます。
この時期、豊臣兄弟は紀州征伐・四国攻めを進めていました。
ですから、正親がいつから秀長に仕えたのかは判然としません。
とはいうものの、その翌月には、秀長与力の白樫左衛門尉に四国従軍を命じる書状を正親が出しており、この頃には秀長の有力家臣の一人となっていたことがうかがえるのです。
大和郡山城にて家臣を謁見する秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
そして同年、秀長の大和郡山入部にともない、大和国添下郡に4万8千石を与えられて小泉城主となり、大名に列しています。
ここから1591年(天正19年)1月22日に秀長が亡くなるまで、正親は秀長を助け、多忙な日々を送ることになります。
その様子を、年表にまとめてみましょう。
1586年(天正14年)5月……興福寺に対し、秀長の命令を伝える 1586年(天正14年)5月……家康上洛にあたり、その取り次ぎを務める 1587年(天正15年)8月……秀長が小早川隆景に送った書状の中に、正親が秀長と隆景の仲介をしたことが記される 1588年(天正16年)4月……本願寺の下間頼廉に「長門守」の名で書状を出す 1588年(天正16年)7月……桑山重晴・藤堂高虎らとともに毛利輝元より進物を贈られる 1588年(天正16年)9月……上洛した毛利輝元の大和郡山滞在に際し、正親の屋敷が宿所とされる 1588年(天正16年)12月……吉川平助が処刑されると、藤堂高虎とともに熊野山奉行を務める。この年、宇陀松山城主となる 1589年(天正17年)2月……秀長から高虎とともに、熊野本宮社の造営を命じられる 1589年(天正17年)5月……熊野北山地域に高虎とともに、赦免を保証する証文を出す 1589年(天正17年)9月……秀吉らが秀長の病気回復を祈願して薬師寺に花瓶などを奉納した際、正親も奉納を行う 1589年(天正17年)12月……家康三男・長丸(後の秀忠)の上洛に際し世話をしたことから、家康から礼を述べられる 1590年(天正18年)4月……聚楽第・大政所の屋敷の護衛を命じられる 1590年(天正18年)8月……秀吉から高虎らとともに、京都方広寺大仏用の材木を送るように命じられるこの間、秀吉は九州攻め(1586~1587年)、小田原征伐(1590年)を敢行し、天下統一を果たしました。
大和国主となった羽柴秀長(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
九州攻めでは、秀長は豊臣軍の実質的な総大将として出陣しているので、正親も従軍していたと考えられます。
一方、小田原征伐には秀長が病気のため出陣できず、大和郡山に留まっていました。そのため、正親も畿内にいたのでしょう。
それはさておき、上記の年表を見ると、あることに気付きます。
それは、徳川家康や本願寺と関わり、毛利輝元や小早川隆景の世話をするなど、正親の交際関係が実に多岐にわたっていることです。さらに、秀吉からも直接指示を受けています。
こうして見ると、羽田正親は単なる武将というよりも、外交や普請、寺社、領国経営など幅広い実務を担う人物だったのではないでしょうか。
秀長の死後、秀保を経て秀次の家臣になる秀長が没したのちは、正親は秀長の後を継いだ大和中納言・豊臣秀保に、そのまま仕えます。
1591年(天正19年)から1595年(文禄4年)4月に秀保が死去するまでの4年間、正親は秀長時代と同様に重臣として主君を補佐しました。
秀保の朝鮮出兵にも同行し、藤堂高虎や桑山一晴らが渡海する一方、正親は名護屋に在陣した秀保に従っています。
しかし、秀保が17歳の若さで急死すると、正親の運命は暗転します。
それは、秀保の実の兄にあたる関白・豊臣秀次(山田涼介)に仕えたことで起きました。
ここで気になるのは、大和中納言家で秀保の死後に、秀次に仕えたことが明らかな人物は、正親ただ一人であったことです。
1595年(文禄4年)3月、秀保は秀吉の命によって大和の算用を求められ、このとき正親は秀次から「大和算用帳」を持参するよう命じられています。
この出来事が、正親と秀次との間に何らかの関係が生まれるきっかけとなった可能性も考えられるのです。
羽田正親が最後に仕えた豊臣秀次(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
そして、そのわずか4か月後の1595年(文禄4年)7月、秀吉に謀反を疑われた秀次が、高野山で自害するという事件が起こります。
【豊臣兄弟!】豊臣秀次(山田涼介)粛清の真相は?切腹へ追い込まれた聚楽第改修に潜む“秀吉への反逆”その翌月、羽田正親は越前国北庄の堀秀治に預けられ、切腹して果てました。
繰り返しになりますが、秀次に仕えてからわずか4か月ほどで、正親は秀次事件に連座したと見なされたのです。
なぜ羽田正親は秀次事件に巻き込まれたのか羽田正親は、豊臣秀次にとってはいわば新参の家臣でした。
その正親が秀次事件に連座したとして、最期を迎えることになった理由は、謎というほかありません。
ただ、正親が「刎田六蔵」という名で登場する『武功夜話』には、その背景を考えるうえで興味深い記述があります。
それによると、秀次が高野山へ追放された際、正親は木下吉隆とともに、秀次護送の監視役を命じられます。
つまり、この時点では正親が秀次の謀反に加担したとは見なされていなかったことになります。
ところが、その後、秀次を高野山から逃亡させようと密かに画策しているとの疑いが発覚。その責めを負い、最期は非業の死を遂げたとされています。
もちろん、『武功夜話』の記述だけをもって、その経緯を確定することはできません。
しかし、秀長のもとで重臣として活躍し、秀保の死後には秀次に仕えながら、わずか数か月で秀次事件に巻き込まれて命を落とした。
羽田正親の波乱に満ちた生涯を振り返ると、秀長没後に豊臣兄弟の家臣たちの運命が大きく変わっていく、そのような時代を象徴する人物の一人だったのではないかと思えてくるのです。
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黒田基樹著 『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』 角川選書
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