朝ドラ『ブラッサム』借金完済から100万部ヒットへ!ヒロイン葉野珠(石橋静香)のモデル・宇野千代の生涯【後編】
令和8年(2026年)後期の朝ドラ(連続テレビ小説)第115作目「ブラッサム」が、2026年9月28日(月)から放送開始されました。本記事では、『ブラッサム』のヒロインモデル・宇野千代の生涯をたどります。
前編では、度重なる運命のいたずらや波乱の恋を乗り越え、小説家として脚光を浴びるまでの怒涛の前半生をお届けしました。
朝ドラ『ブラッサム』元夫の弟と同棲&4度の結婚!ヒロイン葉野珠(石橋静香)のモデル・宇野千代の生涯【前編】【後編】となる今回は、彼女の才能が文壇を飛び出し、出版事業やファッションの世界へと花開いていく後半生に迫ります。
日本初のファッション専門誌の立ち上げ、デザイナーへの転身、そして会社倒産と莫大な借金の完済——。どんな逆境に立たされても情熱のままに時代を駆け抜け、100年の天寿を全うした宇野千代の真骨頂とも言える生き様をご覧ください。
日本初のファッション専門誌を創刊!千代はデザイナーにも挑戦する
昭和の時代が自由な空気を失いつつある中、千代は新たな試みを始めます。
昭和11(1936)年6月、千代はスタイル社を創立。日本で初めてとなるファッション専門誌『スタイル』を創刊しました。
このとき、千代は恋人である北原武夫とともに編集者となります。
昭和13(1938)年、スタイル社において文芸誌『文體』を創刊。しかしこれは成功することはありませんでした。
翌昭和14(1939)年、2人は結婚。編集として夫婦として、スタイル社をともに率いていくこととなりました。
昭和16(1941)年4月、千代は武夫らとともにアジアの満州国や中華民国を旅します。
同年6月には異母弟の光雄が急逝。そして悲しい知らせはさらに続くこととなります。
翌昭和17(1942)年、夫の武夫が報道班員としてジャワ島に出征。千代の『スタイル』も敵性語とされた英語から『女性生活』へと改題を余儀なくされました(会社名は「文體社」と改名)。
昭和18(1943)年、武夫が復員。勢いづいたのか、同年に千代は『人形師天狗屋久吉』などの書籍を次々と刊行しています。
しかし悪化する戦況は、暮らしに暗い影を落としていきました。
昭和19(1944)年、千代は『女性生活』の廃刊を決断。会社も解散して熱海への疎開を決めました。
疎開先では谷崎潤一郎夫妻と交流を深めるなど、千代はどのような環境でも逞しく生きようとしていました。
昭和20(1945)年、武夫の故郷・栃木県下都賀郡壬生町に再び疎開。同地で終戦を迎えました。
翌昭和21(1946)年、千代は武夫とともに「スタイル社」を再建。自身は副社長として社長となった武夫を支えます。
さらにファッション専門誌の『スタイル』を復刊。着物のデザインにも乗り出し、雑誌で販売に乗り出すという手法で利益を上げました。
昭和25(1950)年には東京の木挽町に自宅を新築。さらにライフスタイル提案ショップ「スタイルの店」をオープンさせるなど、本格的な業務の多角化へ舵を切っていました。
ファッション誌の編集者からデザイナーとなった千代は、本場にも足を運んでいます。
昭和26(1951)年、2ヶ月間にわたってヨーロッパ各地を旅行。毎日新聞への寄稿や哲学者エミール=オーギュスト・シャルティエから自著を贈られています。
新たな分野への挑戦に胸を弾ませる千夜でしたが、同年に継母・リュウが世を去るなど深い悲しみに暮れる出来事がありました。
歴史に刻んだその生き様千代の人生は、試練と転換点の連続でした。昭和27(1952)年、国税庁がスタイル社に査察。これは千代の成功を妬んでいた同業者からの投書によるものでした。
脱税疑惑がかけられ、千代たちは世間からは白い目を向けられることとなります。結果、スタイル社には巨額の追徴課税が課されるなど経営にも影響することとなりました。
しかし千代は歩みを止めません。
昭和32(1957)年、千代はアメリカのシアトル国際見本市において着物のファッションショーを開催。世界的な注目を浴びます。
同年には、スタイル社で刊行した『おはん』で野間文芸賞と女流文学者賞を受賞。文学者としての勢いも衰えていませんでした。
しかし輝かしい業績の裏には、経営の苦労が付き纏っていました。
昭和34(1959)年、スタイル社が倒産。千代は巨額の負債を抱える身となりました。
昭和38(1968)年2月には、千代は雪道で転倒。これが原因となり腰骨を折る大怪我をしています。
このとき看病をしたのが写真の藤江淳子であり、終生の秘書となりました。
昭和39(1964)年には、抱えていた負債を完済。それを機に、千代はパートナーである武夫と離婚します。
孤独を抱えながら、その後も千代は創作活動を続けました。
昭和47(1972)年に日本芸術院賞、昭和57(1982)年には菊池寛賞を受賞。翌昭和58(1983)年刊行の自伝的作品『生きて行く私』を上梓し、100万部という驚異的なベストセラーとなりました。
平成2(1990)年には文化功労者として顕彰。日本を代表する作家の1人となります。
平成8(1996)年6月10日、宇野千代は急性肺炎のため世を去ります。享年100。
およそ一世紀にわたり、小説や出版、服飾という異なる分野を行き来し、心のままに生き切り、日本の文芸史にh深く名を刻んだ生涯でした。
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宇野千代さんのホームページ 森順子「生き抜く人間の姿–宇野千代論」人間環境大学編集委員会 2002年日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


